七、絶えることのない春の約束

 

2010326日、山口裕は86歳の高齢にも関わらず、紫金草合唱団100名と一緒に南京を訪れ、いつものように紀念館で和平園の紫金花の少女の像に千羽鶴を捧げた。次の日、合唱団が南京理工大学で紫金草物語を公演した後、大学は山口裕と大学生との交流の場を設けた。会に先立って山口裕は、紫金草が日本に来て70年になるので、その記念牌を大学に贈呈した。その一面には「日中は平和の花を共有する」と書かれていて、和平園に咲く紫金草と、山口の故郷の石岡に咲く紫金草の2枚の写真があった。裏側には不忘历史,面向未来(歴史を忘れず、未来に向き合う)と書かれていた。山口裕は講演の中で紫金草について語った時、遠い昔に鑑真和尚が日本にもたらした珍しい琼花について述べ、今は紫金草を日本人に知らせたいのだと言った。また大学生の「日本人のどのくらいが南京大虐殺を知っているのですか。」という質問に、「日本の歴史の教科書には南京大虐殺の事はほんの数行しか書かれていません。政府は自分の醜い面を書きたくないのです。しかし多くの歴史学者が真実を書いていますから、段々と知られるようになるでしょう。」と答えた。

20111月、大門高子は紫金草の南京公演について考えていた。毎年春に南京を訪れると約束してから数えてみるともう10年目になるが、この年も希望者はすぐに100名を超えた。大門高子が「もう87の高齢だから」と止めたのだが、山口裕は「私は先が長くはない。多分最後になるだろう」と言ってやはり参加することになった。その年の3月、東北大地震が発生し、東北の合唱団員にも被害が及び、合唱団は南京に行くべきかどうか迷った。皆が相談する中で「苦しい時だからこそ、それを乗り越えて約束を果たすのが、紫金草の精神ではないのか。」という意見が出て、結局行くことになった。

325日、紫金草合唱団一行66名は南京に向けて出発した。被災地の40名の団員はやむを得ず参加を取りやめたが、仙台の岡村朋子は家が被災したにも関わらず敢えて参加した。紀念館の朱成山館長は、大災難にも関わらず約束を果たしに来た紫金草合唱団を高く称賛した。紫金草合唱団の公演は南京理工大学の学術交流センターで行われ、上海の日本人愛楽楽団も伴奏を行なった。ある記者が山口裕に「あなたが高齢にも関わらず南京に来られる原動力は何ですか。」と尋ねると、「紫金草が私に力を与えてくれるのです。私は原爆も受けて体が弱っていますが、南京の紫金草が私を呼んでくれているような気がします。私たちの年代は戦争を経験し、その被害に遭っていますから、それだけに平和を望む気持ちが強いのです。日中両国は隣国です。仲良くしなければなりません。」と答えた。また「紫金草の活動は後継者が居るのですか。」と聞かれると、「最初は父が一人で始めましたが、その後私たち兄弟が加わり、更に近所の人たち、紫金草合唱団の人たちが加わってくれました。山口家の次の世代は彼らなりのやり方で平和の望みを表すことと思います。」と答え、「来年も来られますか」と問われると、「さあ、来たいのですが、神様が時間を与えて下さるかどうか・・」と答えた。

帰りのバスの中で、窓外の景色を眺める山口裕は何も言わず、時々涙をぬぐっていた。ガイドの孫曼には「さようなら、南京、さようなら、紫金草の故郷。」とでも言っているように見えた。実際これが最後の訪問となり、山口裕は20135月、この世を去った。亡くなる1ヵ月前、親友の鈴木俊夫に送ったハガキの中で、「日本が平和の道を歩んで欲しい。」と書いていた。葬儀には多くの紫金草の花が飾られた。彼の息子は挨拶の中で、「父は紫金草のおかげで充実した人生を送り、多くの友人を持つことが出来て幸せだった。」と述べた。

大門高子は悲しくてたまらなかった。「あなたは父上と同じく、一生を通じて紫金草と関わり、皆さんから尊敬されて来ました。あなたのおかげで今、日本には多くの紫金草の花が咲いています。ゆっくりお休み下さい。・・」またこうも言った。「この数年、紫金草合唱団の団員が次々と亡くなっています。山口裕さん、凛子さん、遠部さん、丸岡さん、前田さん・・。一人亡くなる度にまるで家族を失ったように悲しくなります。」彼女はその後、南京へ公演に行く時はいつも亡くなった人たちの遺影を携えて出かけ、歌う前に「さあ、準備出来た、始まるわよ。」と写真に向かって呼び掛けている。2012年は日中国交回復40周年及び南京大虐殺75周年に当たる。日中関係には南京大虐殺、教科書問題、釣魚島事件、靖国参拝問題など暗雲が立ち込めていた。特に日本国内の一部には「南京大虐殺は無かった。」とする人々がいて、中国人特に南京の人たちは到底許すことが出来なかった。201112月、国交回復40周年の機運を高めるために日中首脳は北京で顔を合わせ、より一層戦略的互恵関係を深めるという共通認識を持った。しかし、それでも日本国内の逆流は収まってはいなかった。

南京と名古屋は19781221日に友好都市提携を行なった。日中平和友好条約が結ばれて以降最初の両国間の友好都市提携であり、また江蘇省が初めて外国と結んだ友好都市提携である。提携後、両市は官民双方の文化交流活動を続けていた。

2012220日、南京市政府代表団が名古屋を訪れて正式な会談をした時に、河村隆之名古屋市長は「確かに通常の戦闘は行われたが、私は南京大虐殺は無かったと思っている。」と述べた。彼はもともと公然と南京大虐殺を否定していたのだ。

河村隆之は1948年生まれ、2009年に名古屋市の市長に当選した。父は日本軍の兵士として侵略戦争に参加し、戦後南京で捕らえられ、日本からの帰国船が着くまでの間は栖霞寺に数カ月住んでいた。その間ある和尚と親しくなり、うどんの伸ばし方を教わっていた。父はそこで友好的な接待を受けていたそうで、彼曰く「もし8年の戦争中に南京大虐殺 のような事が起こっていたら、中国人はそんな友好的な接待が出来るわけがない。」

日本のあるマスコミは「名古屋はかつて日中ピンポン外交”が発祥した町で、2012年は日中国交正常化40周年なのだから、そのような時に『南京大虐殺は無かった』などというのは非常に馬鹿げたことで、時宜をわきまえていない。」と評した。河村の発言は大きな物議を醸し、特に南京の反対は強烈だった。河村は自己の発言を撤回せず、また謝ることもなく、この発言についての弁明の会を開いてもよいと言った。我が国の外交部広報員洪磊は新聞発表で「南京大虐殺は軍国主義の日本が戦争中に犯した残逆行為であり、その疑いようのない証拠が山ほどある。」と厳しく指摘した。

南京大虐殺紀念館の朱成山館長は、河村に対して公式の抗議文を発送した。

「あなたが名古屋市の市長として、父親の戦時体験談を根拠に何度も南京大虐殺の歴史を否定するのは、とても大きな間違いです。誰もが承知しているように、侵華日軍は中国人民に対して色々な許すべからざる犯罪を行いました。特に南京大虐殺は深刻なものです。侵略の加害者の次の世代として、父親の世代が侵略戦争に参加したことに応えて、戦後寛大な措置をとった南京市民に恩を感じて、父親の世代を代表して加害地の人民に対して心から謝るべきです。あなたがしていることは道からはずれていて、全く話になりません。南京市と名古屋市は友好都市で、両市が容易に交流できる友好関係は得難いものです。市長のあなたが無責任な発言をすることは公衆を惑わし、特に若い人たちの正しい歴史認識をゆがめることでしょう。それは同時に、歴史の事実を尊重しない、まだ生きている南京大虐殺の生き残りの人たちを尊重しないことをも表しており、更にかつて日本の侵略と加害を受けた南京市民に対する友好を損なうものです。」

2012221日の夜10時、南京市人民政府外事弁公室広報員は宣言を発した。「名古屋市の河村隆之市長が公然と南京大虐殺を否定し、南京人民の感情をひどく傷つけたことに鑑み、南京市は名古屋市政府との公的交流を暫時停止する。」日中両国人民が日中国交回復40年に当たって雪解けの陽が当たることを望んでいたこの時に、突然冷たい風が吹き、平和を愛する人たちは冷水を浴びせられてしまった。春が来て、二月蘭が咲いたというのに、一夜にして日中関係は真冬のように冷え込んだ。紫金草合唱団の団員は新聞報道を見てがっかりし、大門高子は「私たちの十年間の努力が河村の一言で台無しにされた。」と言った。団員は集まって口々に河村の無責任な発言を糾弾した。誰かが提案した。「この冬、私たちは南京へ謝りに行きましょう。私達の成果が一夜にして無に帰すなんて許せません。南京との春の約束”を前倒しにする重要な節目12.13が正にその時です。」皆はそれに同意した。「南京に行って、犠牲者に南京市民に済みません。』と謝ろう。」

20121212日、40数名の紫金草合唱団員が、南京に着いた。次の日に紀念館で行われる12.13追悼行動に参加するためだった。

1213日の朝は冷たい風が吹いていた。紀念館の広場には南京市各界の名士、駐寧部隊代表、及び外国からの平和を愛する人々9000人が、追悼式と平和集会に参加する為に集まっていた。これは近年で最高の人数である。学者の孫歌は「南京大虐殺の記憶或いは追悼の度合いは、中国人の日本の右翼に対する怒り及び日中の感情が傷ついて修復出来なくなったその深さを映し出している。」と指摘している。誰もが河村隆之の南京大虐殺否定発言に抗議する為に集まっていた。この追悼集会は1994年以来続いて来たものである。凄まじい警報、列車や船の汽笛が鳴り響いた。南京市の市民代表が南京平和宣言を読み上げ、その中で河村発言を強く糾弾した。平和の鳩が飛び立った後、日本から来た紫金草合唱団が江蘇省放送局合唱団と一緒に、紫金草物語のテーマ曲平和の花、紫金草を歌った。歌声は紀念館の上空に響き渡り、人々の心に染み込んだ。この時、紀念館の和平園には二月蘭が一杯に咲いて、春の到来を待っていた。

大門高子がインタビューに答えて言った。「私たちは今回とても重い気持ちを抱いて来ました。いつもと違って,日中関係が凍り付いてしまった時に来たのです。河村市長の発言は南京市民を傷つけただけでなく、平和を愛する全ての人を傷つけました。市長の立場にありながら、父親の体験談を聞いただけで、何と好き勝手な発言をするのでしょう。歴史を認めず、謝りもしないで南京の人たちを傷つけることは、私たちも許せません。犠牲者の方々、本当に申し訳ありません。河村は私たちを代表してはいません。私たちは謝りに来たのです。私たちは冷たい風はもう吹き去ったと信じています。日本には日中両国の友好を願う人が大勢います。特に民間においては多くの人が仲良くすることを望んでいます。」

紫金草合唱団が東京に帰って間もなく、名古屋の坂東弘美が大門高子を訪ねて来て、名古屋で紫金草の公演をして欲しいと要請して来た。坂東弘美は2001年に紫金草合唱団が初めて南京公演をした時の司会者である。河村事件が発生した後、仲間と一緒に河村市長に南京大虐殺否定発言の撤回を求める会を立ち上げて抗議の意志を示し、名古屋では500名がこの組織に参加した。坂東が言った。「私の父は軍人として1214日に南京に入り、惨状を目の当たりにして、それを日記に書き残しました。その目的は、娘や孫に戦争の真実を伝えることでした。たまたま私と河村は同い年なのですが、同じ年代の父親がどうしてこんなに180度も違うことを言うのでしょうか。父の証言も聞いて下さい。それに事件の生き残りの夏淑琴が日本の右翼を名誉棄損で訴えた日本の裁判では勝訴しています。日本の裁きでは史実を認めているのです。彼の話を聞いた時、私は『あなたが知らないのなら、私が教えてあげましょう。』と言いたくなりました。彼は日本を訪れた友好訪問団の面前で、わざわざあの話をしたのです。本当に失礼です。」

坂東が「私たちは15日に名古屋――南京友好都市提携35周年記念音楽会を開こうと思っています。名古屋には藤村紀一郎という音楽家が居て、私たちと意気投合しています。私が執行委員長に、彼が副委員長に推されました。前半は幾つかの小曲で、後半は紫金草物語にしたいんです。」と言うと、大門は「それは良い。きっと参加します。」と応じた。大門が東京に帰って合唱団員に相談するとみんな快く賛成してくれて、参加者を募集すると、大門の60名の予想に反して90名が集まった。公演は201315日、名古屋女性会館で行われ、多くの名古屋市民が集まり、中国の駐名古屋総領事館の領事も臨席した。中国のマラソン選手の趙友風を教えた83歳の元マラソンコーチの竹内伸也氏は、南京市の名誉市民の称号をもらっているが、彼は挨拶の中で「あなた方の歌声は、きっと南京まで届くことでしょう。」と言った。坂東は中国社会科学報の記者のインタビューに、「本当の歴史を知って、それを伝えることこそが大切なのです。」と答えた。

2017年は南京大虐殺が起こった1937年から数えて80年目に当たる。41日、大門高子は紫金草合唱団一行80名を連れて再び春の約束の地、南京にやって来た。平井、武藤の2名は足が不自由で、車いすを使った。鰐部氏は85歳の高齢で、家族が止めるのも聞かずに参加した。43日、一行は南京理工大学に来て和平園を見た。大学の教師、学生が温かく迎えてくれて、一緒に紫金草物語といくつかの曲を歌った。44日、一行は虐殺紀念館にやって来て、紫金草の花園紫金花の少女像に千羽鶴を捧げ、南京の詩人馮亦同の書いた詩を朗読した。その後の追悼式において、大門高子は挨拶の中で歌が好き、花が好き、平和が好き”というお気に入りの言葉を紹介した。最後に日本の人たちと南京の小銀星合唱団30名が一緒になって、紫金草物語のテーマ曲平和の花 紫金草を歌った。

南京から帰った後の77日、大門高子は中国の駐日大使館の7.7事変記念日平和集会紫金草物語”を上演した。その集会には紫金草合唱団、日中友好8.15の会、関中日本平和友好会、撫順の奇跡を受け継ぐ会、不戦兵士市民の会など5つの民間団体が招かれて参加した。紫金草合唱団にとって中国大使館での公演は4回目だった。駐日中国大使の程永華が挨拶し、「歴史を記憶するのは恨みを残すためではなく、平和を維持し、明るい未来を創り出すためです。」と述べた。不戦兵士と市民の会の高野邦夫は、「私たちがこの会に参加したのは、騒ぎを起こすためではなく、歴史を記憶し、若い人たちに歴史の真相を理解してもらうためです。」と述べた。集会の最後は30名の団員による紫金草物語の演奏だった。

2018年の春、南京市対外友好協会の孫曼から私に、大門高子が南京に来るとの電話が入った。彼女の話によると、「昨年7,江蘇省人民対外友好協会が新華報業伝媒集団との共同主催で江蘇省外国人文章コンクールを開くので、そのことを大門高子に知らせた所、彼女は早速私の心の声という文章を書いて新華日報”に送り、それは330日の新華日報に載った。その文章は一等賞をとり、彼女はその授賞式に出るために来る。」のだという。私は「それは祝ってあげなければなりませんね。」と答え、新聞を買って来て大門高子の投稿を読んだ

私の心の声

平和の花紫金草の物語

20151213日、私は紫金草合唱団の人たちと一緒に南京に来て、第二回南京大虐殺犠牲者追悼国家式典に参加し、警報が鳴った時には、当時の惨状を思って涙が出ました。

紫金草は中国名二月蘭です。1995年、朝日新聞で次のような記事を読みました。「茨城出身の軍人山口誠太郎が1939年に南京の紫金山の麓から紫色の花の種を持ち帰り、紫金草と名付け、戦後に戦争への反省と平和への祈りを込めて家族と一緒に全国に撒いた。1985年の筑波科学万博では100万袋の種を来場者に配り、その袋に各国語で平和の花、紫金草の説明を載せた。」

私はこの記事に感銘を受け、作曲家の大西進氏と一緒に1998年に12個の組曲からなる紫金草物語という曲を創りました。日本の音楽界から侵略戦争を反省し、平和を呼び掛ける最初の合唱作品と呼んでもらい、日本各地の合唱団が歌うようになりました。

20013月、駐日中国大使館のお世話により、日本各地の200名からなる日本紫金草合唱団を引き連れて初めて南京を訪れ、南京大虐殺の被害者と南京市民の前で紫金草物語”を演奏し、歌声で戦争を懺悔し、大きな社会的反響を呼びました。

この15年間で延べ1000名の合唱団員が自費で何度も南京を訪れ、南京大学、南京理工大学、暁庄学院、金陵老年大学などで公演と交流を行い、歓迎してもらいました。中央電視台は実話実説講述の番組で特別番組を組んでくれ、今の私には南京がまるで故郷のように優しく感じられます。

昨年の2月から南京広電グループはインターネット上で紫金草行動”を始めました。平和を愛する人は誰でもネット上で申請すれば紫金草のバッジがもらえるのです。今では30数万人が徽章をつけ、その中には有名人も含まれています。人々がこのように紫金草精神を認めてくれるというのは、中国人民に限らず日本の人たちも、再び戦争の苦痛を味わいたくないと思っているからだと思います。

今、紫金草物語を中心とする合唱団は日本全国の博多、大阪、奈良、東京、千葉、茨城、金沢、仙台にあって、団員たちはみんな日中友好を進めるためにがんばっており、当然紫金草は誰でも知っています。紫金草合唱団の団員は、自からの体験で南京の自然の風物と社会の人情を知って、南京とそこに住む人が好きになります。この15年間私たちは舞台の上で歌うだけでなく、舞台以外でも各界の人たちと交流を深めて来て、南京の人たちの心の温かさを知っています。泊っているホテルの近くには公園があり、朝早く散歩に行くと色々な人たちに出会います。中山陵の音楽台、省昆劇場、江蘇演技集団練習場、紫金山・・どこへ行っても歌で以て平和を愛する南京の市民と交流することが出来ます。今年の式典が終わった後、再び南京理工大学へ行って先生方や学生たちと平和の歌 紫金草を歌いましたが、その中には10年前に一緒に歌った人もいて、彼らはもう卒業していたのに急いでやって来て私たちと旧交を温めてくれて、とても嬉しく思いました。周りで聴いていた人たちも歌が終わった後、直ぐには帰らずに交流してくれて、とても感動しました。

振り返ってみると、15年前最初に来た頃、人々の視線は冷たく、身の置き所が無くて、とても不安でした。笑顔と歌声のあった所に、恨みと怒りをもたらす戦争が起きないことをどんなに願ったことでしょう。

今回南京を訪れて、不忘歴史、面向未来を旨とする音楽の交流をすることによって、人の心がこんなにも温かい事を感じました。私たちは平和の使者として中国のマスコミに大きく取り上げられ、南京においては紫金草が平和の象徴とみなされ、皆に知られて、紫金草物語”が蘇教版五年生の人徳と社会”の教科書に載っているということを知って嬉しく思いました。これらのことから、紫金草がこの15年間に成長して人々の心の中にしっかりと根付いたことに感動を覚えずにはいられません。日本はもちろん南京においても紫金草は既に花が生い茂り、どこまでも成長していくことでしょう。

私は歌を愛し、花を愛し、南京を愛しています。これは私の、そして紫金草合唱団の人たちの心の声です。私は紫金草の花のように、小さくても日中友好の為に鮮やかに、力強く咲き続けて行きたい・・

大門高子のこの文章は紫金草合唱団の成り立ちを総括しており、分かり易くて、自然で、誠実で、正に受賞に値するものである。

201843日の午後、江蘇省人民対外友好協会と新華報業伝媒集団共同主催の江蘇省外国人文章コンクールの表彰式が南京で行われ、私は現場で取材した。この活動は50以上の国の国際的友人たちの関心を呼び、320篇の作品が寄せられ、大門高子の私の心の声など5つの作品が一等賞に選ばれた。私が彼女に祝福の言葉を述べると、彼女は「ありがとう」と答えた。彼女はこの日和服を着ていて、胸には紫金草のバッジが付けられ、満面に笑みを浮かべていた。式が始まり、司会者が賞状を読み上げた。

「彼女は日本の小学校の教師であり、有名な作詞家であり、

平和友好団体――紫金草合唱団の団長であり、

彼女の創作した平和の歌紫金草物語は既に1000回も演奏され、

彼女は歌によって戦争を反省し、謝罪の意を表した。

彼女が率いる紫金草合唱団は日本各地の演奏だけでなく、南京、上海、北京、泰州、

ニューヨーク、台北、台南などでも紫金草物語を演奏した。彼女は日中両国の人民の

友好に貢献し・・

彼女の名は大門高子、彼女が一等賞を受賞した文章の題目は私の心の声である。」

彼女が舞台に上がって挨拶した。

「今日は大変感激しています。一等賞をもらえるなんて夢にも思っていませんでした。紫金草を撒き広める思想と精神は、私の心から湧き出る望みであり、また紫金草合唱団を立ち上げた目的でもあります。私は懺悔する気持ちで作品を創りました。私たちは心をこめて歌っていますが、中国の人々、特に南京の人たちに認めてもらえるかどうか分かりませんでした。こうして江蘇省政府から表彰して頂いて、大変光栄に思います。これからの残った人生も活動を続けてまいります。紫金草を歌い、平和を歌い、より多くの日本人に、歴史を尊重し、未来を切り開くように呼び掛けます。南京は私のもう一つの故郷です。私は南京が大好きです。脚で歩ける限り、また来ることでしょう。」

人々はこの、平和の為に歌い、走り続ける日本の友人に熱い拍手を送った。

次の日、大門高子は紀念館の和平園を訪れ、紫金花の少女に千羽鶴を捧げた。それは日本を出る時にある団員が彼女にお願いしたことでもあった。彼女は団員に見せるために、何枚もの写真を撮った。その日の午後、私は彼女の泊っていたホテルにインタビューに行った。彼女は古くからの友人に会ってとても喜び、日本から持って来た紫金草のマークの入った清酒をプレゼントしてくれた。「この酒は紫金草合唱団のある団員が自分で作ったものです。」私は彼女と合唱団員の細かな心配りに感動した。合唱団との長い交流の中で私が気づいたのは、彼らが紫金草の図案を名刺やバッジ、ネクタイなど色々な所に取り入れていることだった。73歳の大門高子は今回、紫色のオーバーに紫色のマフラーを巻いていて、若々しく見えた。

「私、春の約束を果たしに来たんです。」

「南京は何回目ですか。」

「もう30回以上です。大げさかも知れないけど、南京は私の第二の故郷なんです。去年、南京が中国の国際平和都市になったと聞いて、とても嬉しく思いました。」

2017831日、南京は地球で169番目の平和都市に、中国で唯一の国際平和都市になった。「平和の町に、まさに平和の花がありますね。」

「そうなんです。私たちはずっと紫金草は平和の花だと思っていました。南京市の関係者も平和の花に認定してくれることを願っています。」

南京市の花は梅の花である。紫金草が平和の花に認定されるかどうかは、市の判断を待たねばならないが、私は心の中で彼女の考えに賛成していた。

「あなた方はいつも南京へ自費で来ているんですか。」

彼女はあっさりと答えた。「そうです。退職年金から出しています。私たち合唱団が中国へ歌いに来る時は全て自費です。皆で相談したのですが、各自が毎月1万円ずつ積み立て、12カ月貯めると1回南京に来ることが出来ます。」

「南京では何回くらい公演されたのですか。」

2001年以降で南京は既に18回になります。南京では、大学だけでなく、水西門社区で社区の心声合唱団と一緒に歌いました。他にも泰州、上海、北京を加えると20数回です。更に2013年の春にはニューヨークのリンカーンセンターで歌ったし、2015年には台北、台南でも歌いました。」

「日本国内ではどうですか。」

1999年から、東京では150回以上、大阪で150回以上、他に沖縄、博多、奈良、千葉、茨城、金沢、仙台、札幌、名古屋、埼玉、多摩など800回以上になります。」

大門高子は歌の好きな作詞家だと分かった。既に500以上の詩を書き、その内で組曲は25個、内容は教育、環境、平和など多岐に及んでいる。

「あなたが創った中で一番気に入っているものは何ですか。」

「もちろん紫金草物語です。私の人生でこの10年はずっと紫金草に関わって来ました。もちろん私の言う紫金草は植物学上の意味ではなく、平和を意味する紫金草です。」

「ご家族はあなたのやっていることを支持しておられるのですか。」

「主人の康隆はとても良く支えてくれます。初めて南京に来た時には一緒に来てくれましたし、彼も南京へ何度も来ています。良く冗談で『俺は大門の影の男だ。』と言ってます。成功する女の影に男ありです。息子は映画の仕事をしていて、やはり支えてくれています。」

「歌以外にも、何かしておられるのですか。」

「山口誠太郎さんが住んでいた石岡地区に紫金草の花園を造り、山口裕さんの友人の鈴木俊夫さんが紫金草に関係する活動についての冊子を出しています。金沢の紫金草合唱団は平和の種を撒く運動を行っていて、全国各地で絵画展を開いたり、感想文を展示したりしています。」

「ずっと種まき運動をしておられて、その社会への影響は如何ですか。」

「日本では、歌を歌える団員は多い時は1000人を超えます。私たち紫金草合唱団は多くの音楽活動に参加しています。東京の東アジア文化祭典には1400人が参加していますが、紫金草はその目玉で、歌が終わると、割れんばかりの拍手が沸きます。それは多くの人が私たち紫金草の活動を認めていることを表しています。平和を愛する人たちは私たちの活動を理解してくれます。日本には平和を愛する人は本当に沢山います。日本の植物学の本では、紫金草は日本の軍人が中国から持ち帰ったものだと書いてあります。多くの方が読後感想文を送って下さって、家に山積みになっていますが、若い人たちからのものが多くて、みな紫金草の物語を知って感動しているのです。その一人は三川さんです。ご両親は三川三郎さんと、三川浩子さん、お二人とも紫金草合唱団の団員で、広島に住んでおられて、もうすぐ80歳になられますが、毎年南京に来ておられます。息子さんが不思議に思われて、どうして南京に行くんだろうかと調べられました。紫金草の事を知って衝撃を受け、より一層研究し、日中両国人民の歌を通じた平和の構築――紫金草組曲を歌う市民間の文化を超えた接触という論文を書かれました。若い人がこんなに深く研究されることは、とても有難いことだと思います。こんなことが起こるとは考えていませんでした。私たちの力量には限りがあって、直ぐに何かを変えられる訳ではないという事は、もちろんよく分かっています。小さな紫金草は黙って咲いていますが、春に彩を添えているのです。」

「紫金草合唱団以外に、もう一つ再生の大地合唱団も立ち上げておられますね。」

「そうです。2000年に日中友好協会会員の小山一郎さんを訪ねた時、体験談を聞かせてもらいました。撫順戦犯管理所で教育を受けた体験は一生忘れることが出来ないというので、私は中国帰還者連絡会のメンバーを訪ねて、朝顔の花の話を聞き、とても感動しました。九州出身の戦犯の副島進さんが、体験を語っておられますが、帰国前に管理所の職員が小さな紙袋を手渡されて、中には黒い種が入っていました。『日本に帰って種を撒いて下さい。綺麗な花が咲きます。良い家庭を築いて下さい。そして今度中国へ来るときは、鉄砲ではなく、美しい花を持って来て下さい。』日本の戦犯が管理所に収容されていた時、管理所の職員は粗末な穀物を食べ、日本人は米のご飯を食べ、注文すれば日本風のおかずも出してもらえました。医療のサービスもあり、今は起訴を免除されて釈放され、帰国しました。その上、管理所の職員が祝福までしてくれて、みんな感動しました。戦犯たちは、帰国後種を庭に撒き、中国帰還者連絡会を組織して、中国での生活を振り返り、撫順での感動的な体験を話しています。その後、彼らの中の一人が新しい朝顔の種を持って撫順の戦犯管理所に行き、庭に撒きました。今、そこには朝顔が一杯に咲き誇っています。私はその話を聞いてとても感動しました。それで色々な資料を調べて再生の大地という組曲を創ろうと思ったのです。数ヵ月かけて構想を練り、歌詞を創りました。作曲家の安藤由布樹先生が喜んで作曲を引き受けて下さって、2012年に混声四部の組曲が完成しました。それから合唱団を立ち上げたのです。」

撫順戦犯管理所での思想教育の歴史は私も知っている。日本が敗戦になった後、60万人以上の日本人捕虜がシベリアに抑留され、強制的に働かされた。その内の973名は中国に移管されて撫順戦犯管理所で思想教育を受けた。それらの戦犯は撫順で6年間過ごし、中国政府の寛大政策によって、皆が罪を認め、人間の心を取り戻した。戦犯たちは釈放されて帰国後、太原の戦犯と一緒に中国帰還者連絡会を組織し、その後撫順の奇跡を受け継ぐ会”が出来た。

「面白いなあと思うんですが、紫金草物語の主要なキャラクターは紫金草で、再生の大地”の方は朝顔なんですね。」

「芸術には抽出と具体化が必要です。例えば紫金草は平和の花であり、朝顔は赦しの花なのです。」大門高子は更に語った。

「撫順にはもう7,8回行きました。2015年は中国の抗日戦争勝利と世界の反ファシスト戦争勝利の丁度70周年に当たる年で、再生の大地合唱団は北京で公演しました。」

「あなた方がずっと歌い続ける原動力は何なのですか。」

「私たちが歌い続けて来ることが出来たのは、一つの信念を持っているからです。それは日中友好の為に何かしたい、平和の為に何かしたいという思いです。実を言うと、みんな命がけで歌っているのです。私たちの団員はほとんどが老人で、70,80の人が多いです。体力、気力、それに金繰りは悪くなるばかりです。それでも私たちはやはり中国に来て歌いたい、日本で歌い続けたいと願う、それは中国の地で受けた心の中の感動があるからだと思います。更に私が思うのは、私たちは年を取るにつれ、いずれは歌えなくなるし、歩けなくなる日も来るでしょうが、それでも別の形の活動があると思います。私たちの望みは人々に、花を愛し、歌を愛し、平和を愛し、人類を愛することを促すことなのです。」

「ならば、日中関係改善の突破口はどこにあると思われますか。」

「共通認識です。例えば紫金草は両国で咲いていますが、両国の多くの人がそれを美しいと思い、平和の意味を含んでいると認めます。より多くの人がそう思うようになった時、それは共通認識です。私たちはもっと多くの共通認識を探していくべきだと思います。そうしないと食い違いがますます大きくなり、隣国同士がますます疎遠になっていきます。」

「合唱団の団員は、多くの方がお年寄りですが、合唱団はこれからも活動を続けて行かれるのですか。」

「そうです。ほとんどの方は60歳以上で、体の弱い方もいて、車いすの方も2名、亡くなられた方もおられます。若い人が少なく、やっていけなくなるのではないか、活動が途切れてしまうのではないかと心配しています。しかし、平和の営みは誰かがやってくれるでしょう。何故なら、人はいつも平和を求めているからです。今、皆の年齢は高くなり、やがてこの世を去ることでしょう。皆でよく『私たちは西方浄土へ行ったら、そこでも紫金草合唱団を立ち上げて一緒に歌いましょう。』なんて冗談を言い合ってるんですよ。」

彼女の話を聞いて、私は目が潤んで来た。大門高子が全身全霊で日中友好に取り組む姿を見て、私はこれまで取材して来た人たちを連想した。

松岡環さんは小学校の教師だが、教科書に戦争のこと、日本が中国を侵略したことがほとんど書かれていないことを知った。1998年に初めて紀念館を訪れ、多くの残酷な写真を見て心が震え、その後、日本の民間反戦団体である銘心会に入り、会長を務めた。この30年間、300名の南京大虐殺被害者と2150名の旧日本兵に会い、南京――引き裂かれた記憶”、南京の松村伍長など3つの記録映画を製作し、東京、南京で放映した。また6冊の日本語、中国語、英語の本を出版し、2018年の南京大虐殺犠牲者国家追悼式典までに紀念館を延べ100回訪れた。

白西伸一郎氏は広島での被爆者である。彼は日中友好を人生の仕事ととらえ、毎年平和を愛する人たちを連れて南京で贖罪植樹活動を行って来た。亡くなった2017年までに延べ32回行い、各界の人士1000名近くが参加して、5万本以上の友好の樹を植えた。

山内小夜子さんは京都の浄土真宗大谷派東本願寺仏教研究所の研究員で、祖父がかつて南京を侵攻した兵士の一人だった。南京大虐殺の歴史を知った後、長い間日本の侵略の事実を伝え続けた。靖国神社を参拝した二人の日本の首相に訴訟を起こし、東史郎の裁判を支援した。ほぼ毎年南京を訪れて犠牲者を悼み、紀念館は彼女に特別貢献賞を贈った。

大東仁氏は日本の僧侶で、日本軍が南京で残虐行為を行なったことを堅く信じていて、証拠物件を収集して来た。日本の古本屋を訪ね回って南京大虐殺に関する資料、物品を1084件集めた。また個人で収蔵していた32件の関係物品を紀念館に寄付した。その中には、日本軍華中派遣軍報道部発行の南京戦役遺跡紹介や日本軍の被害に遭った中国の軍人と民間人の死体の写真が含まれている。彼のことを中国の手先とか反逆者と呼ぶ者もいたが、彼は「平和の為だ、価値があるのだ!・・・」と言っていた。

これらの日本人の、労をいとわず日中両国人民の友好に努力する精神には感動を覚える。

日本の前駐華大使丹羽宇一郎氏の「日中両国は動くことのない隣国で、2000年の交流の歴史があるのだから、平和な関係を保つことこそ、互いの利益になる。」という言葉が日本の友好人士の心の声を代表している。最近の数十年、日本政府が南京大虐殺や釣魚島、靖国神社参拝などの問題に取り組む態度は、中国政府を失望させ、日中関係を冷え込ませてしまっている。

しかし民間では、平和を、日中人民の友好を呼び掛ける声は止まることは無く、面白い現象が起こっている。日本の何人かの政治家が、在任中は口を濁していながら、退任後に民間の平和を愛する人々と同調する言葉を発しているのだ。例えば、これまでに4名の首相経験者が南京大虐殺紀念館を訪れて、以下の言葉を残している。

1998年、村山富市、前事不忘、後事之師

2000年、海部俊樹、21世紀は平和を求める世紀である

2013年、鳩山由紀夫、友愛和平

2018年、福田康夫、東アジアの平和

退任後にこれだけの言葉を残していながら、在任中はこんな声を聞けなかったということも、日中関係を冷え込ませている重要な原因ではないのかと私は思う。

幸い、大門高子や松岡環のような民間人のたゆまぬ努力によって小さな流れが大きな河になり、一つ一つの民間人の活動が共通認識の橋渡しとなる望みがある。私が大門高子にインタビューに行った時、窓の外の花園には二月蘭が満開だった。

「今は日本の二月蘭もよく咲いていますね。」

「丁度、富士山の麓を通って来た所なんです。今は紫金草が塊になってあっちこっち咲いてました。南京に行けば、紀念館で紫金草が咲いています。示し合わせたようにね。」彼女の話を聞いて私は、2003年の春に日本へ取材に行って、富士山に登った時に見た紫色の花の海を思い出した。彼女は昨日南京にいて、一人で東郊へ行って、南京理工大学の和平園であの二月蘭の海を見て来たのだという。私は、「今、南京では南京理工大学に限らず、南京林業大学、玄武湖公園、雨花台烈士陵園、緑博園、霊谷園など色々な所に咲いています。」と言った。大門高子は帰国後直ぐ私に再生の大地の演奏会のビデオを送ってくれた。私はその最後の章撫順の朝顔に注目した。

 

(歌詞略)

 

これも花が東に渡った出来事の一つを表している。紫金草物語の中の紫金草が反省の花、平和の花ならば、再生の大地の中の朝顔は、赦しの花、目覚めの花”である。この二つの花は大門高子の人生にとって重要な位置を占めている。彼女は退職後、ほとんどすべての精力を、紫金草を歌い、朝顔を歌うことに注いで来た。だから彼女を知る人たちは彼女のことを花の使者平和の使者と呼んでいる。

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