四、      歌を携えて南京へ

 

1999年春の公演には中国駐日大使館文化参事官の耿墨学が聴きに来ていた。公演後、感動した彼は大門高子と会い、また山口裕とも会って彼が語った紫金草の故事に感動した。大門高子が「もし南京で歌うことが出来たら嬉しい、南京の人に歌で謝罪したいんです。」というと、耿墨学は「あなた方が中国に来ることを歓迎します。ぜひ南京で歌って下さい。私が南京と連絡を取りましょう。」と言った。

1999820日、南京市人民対外友好協会の女性職員の孫曼は、中国駐日大使館から、「東京紫金草合唱団という日中友好を求めるアマチュアの団体が、南京との文化交流を行うことを希望し、また将来南京に平和の花園を建設したいと願って、この8月に6名の責任者を南京に派遣して話し合いたいと考えている。」というファックスを受け取った。南京市人民対外友好協会は、そのファックスを真剣に受け取め「6名の派遣団を受け入れ、孫曼を担当者にあてる。」と返信した。孫曼はその後、大門高子から国際電話で紫金草合唱団について色々と話を聞いて、大いに歓迎すると答えた。その電話を受けた大門高子は感激して言葉が出なかった。孫曼は日本の名古屋大学の卒業で、日本で長年暮し、日本の実情をよく知っていた。その後彼女と大門は手紙や電話、ファックスなどを通じて、南京公演の実現に向けた具体的なやり取りを何度も行った。彼女が1年の間に大門から受け取ったファックスは机の上に20cmの高さになり、それらの計画書は今も保存されている。

19998月、大門高子と夫の大門康隆ら6名が南京にやって来た。孫曼は大門高子に会うのは初めてだったが、彼女は本当に真っすぐな心の持ち主だと思った。その後の2日間、彼らは色々と打ち合わせた。大門高子は合唱団の内の2人は車いすなので配慮が必要だと言った。孫曼は大門高子が普通の人以上に細かい所まで好く気の付く人だと思った。双方の話し合いの結果、公演の日程は2001325日から28日までと決まった、その知らせを聞いて紫金草合唱団の人たちはとても喜んだ。

南京”という言葉は日本人にとって微妙な響きを持っている。南京と東京は海を隔てて直線距離で1969㎞の所にある。以前は上海まで飛んでそこからは列車かバスで行くようだったが、2007年に直行便が飛ぶようになり、3時間で行けるようになった。歴史上、南京は日本の文化に大きな影響を与えてきた。かつては呉の国の首都であり、中国伝来の品には呉服など呉の字の付くものがあるし、南京錠など南京をかぶせた言葉もある。昔からずっと人的、物的交流が続いて来たのだが、1930年代以降に日本と南京の関係は大きく変わってしまった。日本の中国侵略戦争が始まり、日本軍は上海を通って南京を攻撃した。侵略者の目に映る南京は中国の代表だったのだ。戦後、日本人は南京と言う言葉を口にするのを嫌がるようになった。紫金草合唱団の団員の中には親戚が南京戦に関係していたという人もいる。彼らは、南京戦は確かに行われたものであり、悪事を働いた以上、それを認めるべきだ、日本はきちんと反省し、このような悲劇は二度と繰り返してはならないと思っている。

これと同様に、日本”という言葉は南京の人にとって微妙な響きを持っている。日本軍が南京を占領した時にやったことについては、80代以上の証言者が何人もいる。被害を受けた南京の人は日本軍に対して強い反感を持っており、特に日本の右翼が事件そのものを否定したりすることに激しい怒りを感じている。

南京大虐殺は南京の人にとって永遠に忘れられない傷跡である。

南京大虐殺は日中両国の人の心にまとわりついて離れることはない。

許すことは出来ても、忘れることは出来ない。

しかし歴史は前に進み続ける。1972年に日中国交正常化がなされ、1978812日、日中平和友好条約が締結された。この年の12月、鄧小平副総理の勧めで、南京市と名古屋市は姉妹都市提携を結んだ。これは当時としては奇想天外な出来事だった。南京大虐殺に加わった部隊は1888年に作られた名古屋師団の一部であり、司令官の松井石根は名古屋の出身である。名古屋の多くの軍人の手には南京の人たちの血が滲んでいた。そのことを南京の人たちは忘れることは出来ない。

その後の20年、日中関係は時に熱く、時に冷たくなった。

2000123日、日本の右翼団体日本輿論の会”が大阪国際センターで20世紀最大の嘘――南京大虐殺の徹底検証集会を開き、右翼の学者東中野修道が公然と南京大虐殺を否定した。中国政府や各界、日本の友好人士はそれぞれに強い抗議と譴責を表明した。大門高子は言った。「この人たちの言っていることはでたらめです。歴史の事実は否定することは出来ません。私たちは南京に行って謝罪することを急がないといけません。南京当局がこんなに早く私たちが南京に行って公演することを認めてくれるとは夢にも思っていませんでした。しっかり準備しないといけません。」

合唱団の幹部は直ちに会合を開き、対策を練った。思いもよらぬことに、団員は全国各地から次々と応募があり、直ぐに200名が集まった。学習会を開き、学者を呼んで歴史の話を聞いたり、本を読んだり、映画を見たりして感想を話し合った。多くの者は素人だったが、皆熱心に勉強した。全国各地に分かれて練習し、時々東京に集まって合同練習をした。指揮者の大西進は、「練習で疲れるようなら、紫金草が咲く様子を想像してみなさい。疲れが取れますよ」とアドバイスした。おかげで数時間の練習に耐えることが出来た。

2001年の春、200名の合唱団は東京から上海を経て、バスで南京に向かった。東京、大阪、金沢、千葉など5つの地区から集まったアマチュアの合唱団は、年齢はほとんどが60歳以上で、最高は80代、車椅子が必要な人も2人いた。父親が中国侵略軍に加わった人は、そっと父の写真を持って来ていて、皆が紫金草の故郷で歌を歌うことによって、謝罪と、平和を願う気持ちを表明しようとしていた。バスの中で、孫曼は南京の歴史を説明した。紫金山が見えた時には、山口誠太郎の故郷の筑波山を思い起こして、皆で紫金草物語の一節雨の紫金山を歌った。

大門高子が後に「この時、多くの人たちは南京の人々が自分たちを恨んでいるのではないかと心配していました。」と言った。しかし南京の人々は寛大な心を持っている。かつて南京戦に参加した東史郎という兵士が陣中日記という本を書いて事実を明らかにした後、南京を訪れた時、南京の人々は彼を責めるどころか。その反省と勇気を褒め称えたことがある。南京は博愛の町、度量の大きい町なのだ。

夕方、彼らは古南都飯店に着き、次の日の朝、紀念館を見学した。この館は1983年、江東門大虐殺が行われた現場に建てられ始め、1985年に開館し、館の名前は鄧小平が揮毫した。団員は南京戦について勉強して来ていたが、その深さは人によりまちまちで、紀念館の遺品や写真などを見るとやはり驚き、多くの者が涙を流した。団員の多くは広島、長崎の原爆資料館でこの世の地獄を見て来たが、南京の惨状はそれに勝るとも劣るものではない。人の手に寄って引き起こされた地獄の様子に声が出なかった。2人の日本兵が殺人競争を行った写真の前では皆黙り込んで下を向いてしまった。大門高子はインタビューに答えて「酷すぎます、どうして日本人はこんなことをしたんでしょう。」と語った。参観が終わった後、紫金草合唱団は紀念館に、紫金花で造った和平と書いた額を贈呈した。その額は紀念館内に設けられた小さな花壇に祭られ、その傍の碑には、

不忘歴史、面向未来 和平的誓言、紫金草

と書かれていた。合唱団の人たちは石碑の前で、紫金草物語のテーマ曲である平和の花 紫金草を歌った。

326日は良く晴れて日差しも暖かく、春の風が柔らかく吹いていた。午後3時、不忘歴史、面向未来をテーマとする紫金草物語の公演が南京市山西路の青春劇場で行われた。南京大虐殺の生き残りの夏淑琴、李秀英、紀念館館長の朱成山、金陵老年大学の200名以上の老年大学生、知らせを聞いた市民、山西路小学校の児童たち、中央や南京の数十のマスコミの記者・・、会場内の1000個の席は満員の客であふれかえっていた。

ソプラノの独唱は、5人予定していたが一人しか出られないということで、永井さんが代表で出ることになった。南京市人民対外友好協会の孫文学は挨拶の中で合唱団の活動を褒めたたえた。大門高子も挨拶して、戦争中の日本人の行為を謝罪し、南京の人たちの温かい歓迎に感謝の意を示し、それに対して客席からは拍手が沸き起こった。指揮は大西進、歌は時に高く、時に小さく、歌い進むに連れて聴衆は歌詞に、そして曲に引き込まれて行った。歌詞は字幕で舞台横に示され、セリフの多くは日本語だったが、中国人の場面は合唱団の代表の藤後博巳が受け持ち、その見事な標準語の発音は南京の人々を驚かせた。

最前列にいた夏淑琴、李秀英は、それぞれ虐殺時の事を思い出して涙が出て止まらなかった。日本の心無い人たちが南京大虐殺は嘘だと主張する中で、この合唱団の人たちは歴史を見つめて謝罪する心を持っているという事に感動していた。公演の後半は紫金草合唱団と金陵老年合唱団が一緒に茉莉花北国の春など良く知られている歌を歌った。会場は拍手に包まれ、公演の終了後は色々な人たちが合唱団を褒めたたえる言葉を残した。

3月27日の午前中、合唱団は南京学芸術学院、南京老年大学、南京市第九中学を訪れ、大学生や老人たち、中学生たちと交流した。皆心を開き、とても暖かい雰囲気だった。

328日、合唱団は中山埠頭、漢中門、東郊、北極閣などの合葬墓地を訪れて犠牲者を追悼した。

南京のマスコミはそれぞれ日本の紫金草合唱団が初めて南京で公演したことを報道した。日本の朝日新聞、中部日本新聞も随行記者を派遣して来ていた。大門高子はインタビューに答えて「私たちは南京でこんなに歓迎してもらえるとは思ってもいませんでした。日本には南京に否定的な言動をする人が少なくありませんが、歴史は忘れることは出来ません。私たちはきちんと謝るべきです。これからも南京に来たいと思っています。」と語った。南京の人に育ててもらった藤井さん、中国で戦ったことのある77歳の千野氏らも感想を述べた。合唱団で冊子を作っている鰐部氏は、ホテルで夜遅くまでコピーをしてみんなに配っていたが、コピー代と称してポケットマネーで2000元を置いて行った。

虐殺紀念館の朱成山館長は、紫金草合唱団の公演に深く感動して公演のあと直ぐに光輝く紫金草の心という文章を書いて雑誌青春に載せた。

「春の初め頃、日本の紫金草合唱団が南京での公演を希望していると聞いた時、私は東京の北の丸公園の辺で見た南京から来た紫金草の花を思い出した。それまでは、その小さな優しい花に奥深い物語があるとは知らなかった。南京市対外友好協会の孫曼さんから話を聞いて感動した。日本の軍人が南京戦で心を痛め、現地に咲いていた紫色の花の種を日本に持ち帰って平和の花として全国各地に撒き広めた。更にそのことをテーマにして紫金草物語という歌を創った人たちがいて、20年来平和の為に多くの活動を続けて来た。平凡な小さな花がこんなにも人々の心を動かした。日本では市民の力は草の根運動”と呼ばれていて、戦争を賛美する大きな勢力の中では小さくて弱い草のような存在ではあるが、手を携え、決してあきらめることなく活動を続けていて、日本の平和を支える柱になっている。そう考えると、靖国神社、昭和記念館の傍の北の丸公園に咲いていた紫金草の花は、実は右翼勢力と対峙する巨大な森林のように思えて来る。

紫金草、平和の花、紫金草の心、平和を追求し賛美する心、紫金草の精神よ、光り輝け。」王崇美さんは金陵老年大学合唱団の団員で、今回の公演に参加して、次の文章を書いた。

「南京の市民として私たちは日本人が南京で行なった残虐行為の歴史を忘れることは出来ません。日本の紫金草合唱団の人たちが、中国人に対する謝罪の気持ちと平和を求める心を持って南京に来てくれたことにとても感動しました。芸術に国境はありません。私たちの心は日本の人たちと相通じています。私は南京人として、中国人として、舞台の上の皆さんが平和の花 紫金草”を歌っている時、誇らしさを感じていました。」

計文嵐さんは南京市一中の音楽教師で、公演を聞いた後で感想を書いた。

「私は偶然紫金草合唱団の事を聞き、音楽の先生方を誘って公演を聴きに青春劇場に来ました。プログラムを見て、その精密さと内容の豊富さに驚きました。人間から南京レクイエムなどを聴くと当時の様子が思い起こされました。私は1937年の“7.7事変後に生まれたのですが、赤ん坊の時に、大人に連れられて日夜、日本軍の爆撃から逃げ回っていました。飛行機が余りにも低く飛んで来るので、気が付かれないようにと母親が赤ん坊の口を塞いで殺すことさえありました。戦争ではなんと多くの人が亡くなったでしょう。私も姉と妹を亡くしました。私の幼少期は逃げ回る日々で大変なものでした。嬉しかったのは、21世紀に入った春の日に、南京人として幸いにも紫金草物語を聞いたことです。作詞家の大門高子氏と作曲家の大西進氏は何と心にしみる歌を創ったことでしょう。平和を象徴する紫金草の花が両国人民の心にいつまでも咲き続けることを祈っています。」

公演の後、私は大門高子の紹介で山口裕にインタビューした。

「山口さんは南京に来られるのは2回目ですが、何か前と違いがありますか。」

「前に来た時は、南京城の修復の為でした。あの時はそっとやって来たのですが、今回は紫金草の歌を歌いに来ました。父は亡くなる前に、『お前はいつか必ず南京に行って、街と紫金山を見て来い。』と言っていました。1995年に平山郁夫氏が南京城の修復を呼び掛けた時に、私はそれに応じて1997年に来ました。来る前は、私が日本兵の息子と知ったら南京の人は私を罵り、殴るだろうと恐れていましたが、そうではありませんでした。皆心が広く、暖かく迎えてくれました。あの頃、私は何も言い出せなくて、父が日記に記していた所を訪ねて回り、明代の城に行った時には『親父、俺、とうとう南京に来たよ。皆温かく迎えてくれたし、謝罪の言葉も述べたよ。』と言いました。今回は違います。皆に父と紫金草の事を話しました。」

「お父さんはその頃、戦争の事をあなたにどんな風に話しておられたのですか。」

「あの頃、私はとても小さかったんです。父は言いました。『人は戦争なんかせずに静かに暮らすのが一番だ。我が家は薬屋だが、薬を作る目的は人の命を救うためだ。』父は哀れみの心を抱いていました。父は中国に行って、沢山の物を見、沢山の事を聞いて、戦争への態度が変わり、はっきりと戦争に反対しました。この戦争の結末は悲惨なものになるといつも言っていましたが、やがてその通りになりました。」

「お父さんは中国の文化がお好きだったのですか。」

「私たち山口家は代々漢方薬を作って来ました。漢方薬は鑑真和尚がもたらしたもので、彼は色々なものを伝え、日本は中国の影響を強く受けて来ました。父は中国文化をこよなく愛し、中国人の同級生の影響も大きく受けました。父は友人が見せてくれたティンバリーの本で日本軍の暴行を知ったのです。」

「お父さんは中国から帰国後、職を解かれましたが、何か直接の原因があったのですか。」「父は『これが天皇の軍隊のすることか』など反戦的な考えを口にし、これが憲兵に伝わって批判されたのです。父は上司に呼び出されて解職を言い渡されましたが、父は『それこそ望むところだ』と言っていました。」

「入隊は仕方のない事だったのですか。」

「そうです。父は学生の頃、軍の資金援助を受けていました。最初はそんなに問題だとは思ってなくて、博士号を獲ってから陸軍科学研究所に入りました。やがて何故戦争を起こして隣国に攻め込むのか疑問を感じ出し、判断がついてからは態度が変わって戦争を嫌い、悔やむようになりました。」

「あなた方家族のその後の戦争に対する態度は、お父さんの影響だったのですか。」

「父は山口家では影響が大きかったです。私たち兄弟は皆、はっきりと戦争は良くないと考えていましたが、自分が表面には立ちたくないので、私に代表させていました。」

「お父さんがあれほど紫金草の種を撒くことに執着したのは、結局何のためでしょうか。」「父は私に言いました。『紫金山から来たこの紫色の花が日本の土地に根付き、広がってくれると、本当に心が慰められる。鑑真は揚州から美しい白い花をもたらしたが、私は紫色の花をもたらしたのだ。』とも言いました。察する所、父の心の中では紫金草がとても大きな位置を占めていたのだと思います。私たちは種を撒くだけでなく、紫金草”という雑誌を出し、紫金草のこと、戦争を反省すること、平和のことに関する文章を沢山書きました。父は生きている間ずっと、あらゆる機会を通じてこの花を宣伝していました。」

「多くの人がこの花を知ったとして、何が変わるのでしょうか。」

「山口家の人もそれを疑問に思っていました。父は生前『今はこの花もその意味も知られていないが、そんなことは構わん。まずは日本の大地に根付かせることだ。いつか日本人は、この花は中国から来た、南京から来た、と知るようになる。そしてもう一度、どうして日本に来たの、と聞くだろう。そしたら、私が日本に持って来たという話になる。皆はその話を聞いて、ああ、平和にまつわる話だったのかと思うだろう。』と言っていました。」

「今回の紫金草合唱団の南京公演は、お父さんは全く思いつかない事だったでしょうね。」「そうです。あの頃庭に咲いていた紫金花が、今では美しい歌声に変わって南京の劇場に響いているんですからね。この声は天に昇って父に、また多くの亡くなった人たちの魂に届いていると思います。紫金花の意義は既に、当時父が思い描いた南京大虐殺の犠牲者を悼む段階から、平和を祈る段階に昇華したのだと思います。特に最近では日本でも知られるようになって、学校で生徒たちが劇にして演じたり、教材にしている所もあります。影響はますます大きくなって行きます。」

「これからもあなた方は南京に来て下さいますか。」

「私は南京の人たちと春の約束を交わしたいと思います。もし南京の人が嫌でなければ来年の春も私は来たいし、毎年春に南京に来て紫色の花を見たいです。私たちは日本では白い目で見られたこともありますが、今日本当に、私たちのやって来たことは全て意義のある事なんだと分かりました。未だ十分ではありません。これからも続けて行きます。」

山口裕は日本に帰ると直ぐ南京市対外友好協会にお礼の手紙を書いて送った。

「南京市人民対外友好協会様

この度は皆さまのご協力により、紫金草合唱団の南京公演が大成功をおさめることが出来ました。私は合唱団の人たちを代表して心からお礼申し上げます。今の私は、かつて父が自分の植えた紫金草が初めて芽を出したのを見た時の喜びと同じ気持ちです。何故なら私たちは50年以上も日中友好平和活動を行って来て、やっと大きな一歩を踏み出したのですから。

私は1924年に生まれました。小学校1年生の時に中国の満州で関東軍が9.18事変を引き起こし、中学1年生の時に盧溝橋事件が起こりましたが、あの頃の父の暗い表情を覚えています。太平洋戦争が始まった時、父は『見ていろ、この戦争の結末は悲しいものになるぞ。』と言いました。果たして、その通りになりました。歴史が好きだった父は、紫金草を育てながら、私に『明治維新以後、小さな日本は大日本帝国などと威張りだしたが、それが間違った侵略戦争の始まりになったのだ。』と言いました。

父と同じく私も、私たちの中国人に対する謝罪と追悼の念を紫金草に託して来ましたが、これこそ私たちが50年も活動を続けて来た原動力でした。残念ながら私と一緒に戦争を体験して来た人たちは一人また一人と亡くなって行き、ここ数年歴史を改ざんし侵略を美化する右翼の勢力が増してきて、これからの若い人たちが歴史の真相を知らなくなってきており、私たちは焦りを感じています。幸いなことに今は紫金草合唱団が出来ているので、彼らの歌声が多くの日本人、特に若い人たちにあの侵略の歴史を思い出させ、教訓を導き出させることが出来ると信じています。父の想いと私たちの活動はこれからも受け継がれていくことでしょう、これ以上の心の慰めはありません。

今年の春も我が家の庭には沢山の紫金草が咲きました。やがて日本各地に撒き広められて行くでしょう。

そう言えば、今年の78日に私はスロバキアに行って国際衛生学会に参加します。それまでに英語の説明文と花の種を準備して、世界各地からの参加者に配ります。

紫金草のおかげでしょうか、今年77歳になりますが、体も元気で毎日社会活動に楽しくいそしんでいます。日本が再び軍国への道を歩んで行かないために、生きている限り微力ながら紫金草の普及活動に力を捧げ続けて行こうと思います。これからも宜しくご協力下さい。

私たちの友情がいつまでも続きますように!

200145日    

日本の一老人 山口裕」東京都東鞍山市の吉村幸子さんも南京に手紙を書いて「小さい時に南京戦に参加した保田という軍人から『この戦争は聖戦などではない、侵略戦争そのものだ。歴史の真相を伝えねばならない。』と聞いたのが印象に残っています。今回の公演に参加して彼の言っていたことが良く分かりました。これからも紫金草の活動を広めて行きたいです。」と述べている。

乾千枝子さんは短歌を作って、南京訪問で感じたことを表した。

紫金草合唱団の団員は皆が感想を書いて、大門高子はそれをまとめて平和の誓いという文集を発行した。彼女はその序言で、「南京の人たちが歓迎してくれる限り、毎年春に南京に行って歌いましょう。」と書いた。

2002324日、大門高子と山口裕は35名の合唱団員を連れて再び南京を訪れ、春の約束を果たした。

25日の朝、紫金草合唱団は紀念館にやって来た。大門高子と山口裕が代表して紫金草の花籠を犠牲者に献花し、皆で紫金草物語”を歌った。

次の日、合唱団員は中山門外の城壁へ行き、その下に咲いた紫金草を見た。城壁は600年もの風雨にさらされながら聳え立ち、弾痕が侵略者の残酷さを訴えていた。花は戦争の全てを見ていた。そして60年を経た今、平和を愛する人たちがやって来たのだ。この後、彼らは紫金山に登って行った。

紫金草合唱団は2年続けて春に南京を訪れ、マスコミがそれを伝えて、中国国内でも少しずつ知られるようになった。2002年は日中国交正常化の30周年に当たる。中央テレビ局の講述という番組が1210日に山口裕を招き、78歳だった彼は「南京を訪れた父親が花を持ち帰った。」という紫金草にまつわる話を行った。

1213日は800万の南京市民にとって特別な記念日である。1937年のこの日、南京が陥落したのだ。大門高子は、春だけでなくこの日にも南京を訪れたいと申し出た。20031213日は南京大虐殺の66周年に当たり、紫金草合唱団は3回目の公演で南京を訪問していた。式典で合唱団は南京の小白鳩芸術団と一緒に平和の花 紫金草”を歌った。その夜、紫金草合唱団は南京文化芸術センターで‟紫金草物語12曲を演奏した。次の日の朝、国際平和セミナーが開かれた時、大門は日本から用意して来た紫金花のバッジを皆に配って胸に付けさせた。花が咲いていない時期でも花の姿が欲しいと思ったからだ。これ以降、紫金草合唱団が冬に南京を訪れる時は必ず紫金花を持って来るようになった。

「北京でも公演しましょう。香港や台湾にも、アメリカにも行きましょう。世界各地で公演しましょう。」これが大門高子の願いだった。私が、何故北京で歌いたいのか尋ねると、彼女は「北京は中国の首都であり、また盧溝橋事件の起きた所、侵略戦争が始まった所です。ここで平和の歌を歌うのは、特に意義のあることです。」と答えた。その願いは2004年の春に実現した。

2004326日~30日、紫金草合唱団は藤後博己を団長として北京を訪問し、第4回公演を行なった。日本の11の地域から111名、多くは60歳以上で最高齢は83歳だった。

327日に盧溝橋を見学した。193777日に日本軍が演習を行っていた時に、兵が一人失踪したことを口実に宛平城に捜査に入ろうとして戦闘になったもので、日中の全面的な戦争の始まりとなった所である。大門高子が「ここに二月蘭は咲いていますか。」と尋ねると、ガイドは「北京には沢山咲いていますから、きっとここにも咲いているはずですが、私は探したことはありません。」と答えた。合唱団全員で戦場へ”の一節を歌った。

328日の夜、平和の声――日中交流歌う会が王府井の金帆音楽庁で行われ、紫金草物語12曲の演奏が行われた。終了後は拍手が鳴り止まず、続いて中国の合唱団も歌い、更に日中合同で多くの歌が歌われた。最後に団長の藤後氏が挨拶した。

329日の朝、紫金草合唱団は楊柳葉老区建設志願工作隊と交流を行なった。彼らの父親はかつて抗日の戦士であり、一方合唱団の中には父が旧日本軍の兵士だった人が少なからず居た。戦場での戦いから半世紀を経て彼らの後の世代が抱き合い、握手し、和解しているのは、歴史を忘れないという前提があってこそだった。隊長の64歳の楊立さんは「小さい頃は日本を憎んでいましたが、今皆さんの演奏を聞いて、日本人も平和を愛しているのだと分かりました。私たちは音楽、芸術を通じて平和を勝ち取りましょう。」と語った。この日の夜、合唱団は精華大学の106名の学生と交流会を行なった。大門高子は「皆さんと交流出来て嬉しいです。私たちの活動は日本では未だあまり知られていませんが、紫金草の故事はこれからも伝えて行きたいと思っています。私たちは老人ですが、日中友好は皆さんのような若い人の力にかかっているのです。」と語った。学生代表の段若思はそれに応えて「私たちは未来に向かって努力していかねばなりません。紫金草合唱団の公演を聴いて、日本には歴史を見つめ、反省し、平和を求める人たちが居るのだと知りました。皆さんの活動を尊敬します。」と語った。会場は拍手に包まれた。

学生が紫金草の公演は右翼の考えを変えることが出来るのかと尋ねると、大門は「右翼の人で、紫金草物語を聞いて考えを変えて献金してくれた人がいました」と答えた。学生が紫金草の公演に対する日本の聴衆の反応はどうかと尋ねた時、小学校の教師の団員が立ち上がり「私が授業で紫金草の話をした時、男の生徒が驚いて怒り出しました。歴史の時間にそんなことは全く聞かされず、聖戦とか南京事件とか簡単な言葉で片付けられていたからです。別の女の生徒は、曲の中にある『生きることより死ぬことを教えられ、・・』という言葉の意味が分からなかったと答えました。」と答えた。大学生が公演するに当たって困ったことを尋ねると、ある団員が「実を言うと、右翼が邪魔をしに来て困ったことがあります。ある地方では公演を取りやめたり、団員の中には家族の反対に遭った人もいました。しかし私たちの活動は正義に基づくもので、決して止めることはありません。私たちに感化されて活動に加わって来る人が沢山います。同僚の先生方で多くの人が紫金草の種を植えてくれました。」と答えた。学生が、歳の若い方の意見を聞きたいと言った時、30歳の団員が立ち上がり「合唱団は御覧の通り年の多い方が多いですが、私は紫金草の故事を聞いて入団しました。若い人は時間がないというだけでなく、この事件に関心が無くて理解出来ません。歴史の教科書ではほとんど取り上げられていないのです。南京に来て万人坑を見て、本当の歴史を知りました。それからは周囲の若い人に過去の日本軍のやったことについて話すようになりました。」と答えた。ある大学生がマイクを奪い取って尋ねた。「日本にも私たちと同じように、真善美を求め、平和を愛する人たちがいるとは思っていませんでした。老人世代が亡くなった後、若い世代が歴史に関心を持たなかったら、一体どうなるのですか。」山口裕が答えた。「今、日本の若者は政治や歴史にあまり関心を持っていません。だからこそ私たち紫金草合唱団は日本各地で演奏し、多くの人に紫金草の故事を知らせ、戦争のことを忘れさせないようにしようとしているのです。」

交流会の最後は、皆で平和の花 紫金草を歌って終わった。

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