三、    紫金草を歌う

私が大門高子に初めて出会ったのは、2001年に紫金草合唱団が南京の青春劇場で公演した時である。50歳の彼女はとても若く見え、やり手だった。背は低いが元気がみなぎり、情熱を感じさせた。私は合唱団のことを何でも取り仕切っていた彼女にインタビューした。

彼女は1945年に栃木県の宇都宮市で生まれ、生後10日目にアメリカ軍の空襲に遭った。母が幼い彼女を抱いて必死に逃げ回り、一時は防空壕の中ではぐれてしまったが、壕の片隅で見つかって助けられたという。もちろん本人はこのことを覚えていないが、幼い頃から何度も聞かされて、彼女の頭には強く印象付けられていた。大学で植物学を学び、卒業後は小学校の先生になった。趣味は幅広く、文学を好み、空いた時間には詩を創っている。小さい頃から花が大好きで、専攻したこともあり、身の回りの植物には特に敏感だった。春の初めに東京の公園で紫色の花を見つけて、何の花だろうかと好奇心を抱いた。牧野富太郎の植物図鑑で調べると“紫花大根”、中国語では“諸葛菜”と書いてあった。

1978年の春、彼女はこの花の物語を新聞記事で読み、種を撒いた山口誠太郎の息子の山口裕が茨城県にいることを知り、会いに行った。山口裕は父のことを語り、彼女は自分の生い立ちを語り、共に戦争反対で意気投合した。彼女は教室で平和を語るだけでなく、特に子供たちに平和を訴える文学作品を創りたい、更に歌を創りたいと言った。山口は賛同し、別れる時に彼女に紫金草の種を一袋渡した。彼女は山口誠太郎の事を詳しく調べた。

1995年、山口裕は父の物語を新聞に載せた。それを読んだ彼女は感動し、必死になって一つの詩を書き上げ、作曲家の大西進に見せた。彼はそれに曲をつけ、7分間の曲が出来た。しかしそれを聞いた友人は「素晴らしい曲だが、これでは短い。」と言った。そこで大西の進言にのっとって、必ずしも山口誠太郎の行なった事実だけにこだわらず、創作も加えた長い組曲を創ることにした。その方がより聴く者に訴える力があると考えたのだ。3か月の間構想を練って初稿を書き、その後2年をかけて練り直し、1998年紫金草の花が咲く頃、12楽章からなる組曲‟紫金草物語が完成した。

以下、紫金草物語の楽譜の通り(12ページ分省略)

原稿を見た時、山口家の人たちは違和感を覚えた。「この主人公は南京戦に参加して、人を殺している。父は戦いに参加していないし、人も殺していない、これでは父について誤ったイメージが伝えられてしまう。」それに対して彼女は答えた。「これは芸術なんです。芸術は生きたものに根差していて、しかもそれを超えるものです。人の心に訴えるものを創り出すことが重要なのです。主人公はお父様がモデルになっていますが、お父様そのものではありません。音楽という芸術における創造的な人物なのです。私たちは歴史を忘れず、平和を愛する人を表現したいのです。」

彼女の話を聞いて、山口家の人々は分かってくれた。山口裕が言った。「父は晩年、中国人に対して申し訳ないと、とても苦しんでいました。あなたの創ったこの物語の肝心な所は紫金草の美しさと、そこに込められた父の願いです。この点に関して、この昨品はよく出来ていると思います。家族を代表して、あなたと作曲家の方にお礼を申し上げます。」

彼女は答えた。「私たちは同じ一つの事をしています。平和を求めることです。お礼を言うのであれば、それは平和の花を日本に持ち帰ったあなたのお父様におっしゃって下さい。」

大西進は作曲を開始し、大門は合唱団員を集め始めた。足立区のある女性合唱団が趣旨に賛同して協力してくれることになり、大門と大西は一週間に2回ずつ指導に当たった。1998年の春、足立区のL-SOPHIA小劇場で50名の紫金草合唱団の最初の公演が行われ、300人の会場は合唱団員の家族や教師たち、地域の人などで満員になった。活動に反対する右翼の宣伝カーが来たりしたが、敢然と追い払い、公演は実施された。人々は演奏中に感動して涙を流し、終了後には山口裕が壇に上がって感謝の言葉を述べた。

1998年頃、日本の“うたごえ運動”は大いに盛り上がり、あちこちに雨後の竹の子のように合唱団が出来上がった。大門が作った紫金草合唱団は“歌声は平和の力”というスローガンを掲げて、人々の心を捕らえた。金沢である人が口にした“花が好き、歌が好き、平和が好き”という言葉が気に入った大門は、それを紫金草合唱団のうたい文句にし、紫金草の花ことばを平和と定めた。彼女は言った。「私たちは歌の専門家ではなく、歌が好きな老人たちの集まりです。一生懸命一緒に歌い、意気投合しているのです。」

村上凛子は金沢の中学校の先生である。1944年に富山で生まれ、直ぐにアメリカ軍の空襲に遭い、町を焼かれ、片足を失った。ある美術の先生が彼女の話を聞いて“片足の凛子”と題する絵本を描き、それは大人が子供に戦争の悲惨さを語る読本になった。彼女は東京で紫金草合唱団が団員を募集していると聞いて大門を訪ね、一緒に歌いたいと申し出て、金沢紫金草合唱団を立ち上げた。村上はいつも大門の描いた“むらさき花だいこん”の絵本と自分が描いた“片足の凛子”の絵本を持ち歩いて新しい友人たちに配り、その数は数年で1000冊以上になった。彼女は言った。「多くの日本人は歴史を知らず、自分を被害者だと思っていますが、私たちは加害者でもあるのです。私たちは歌を通じて戦争の被害と加害の関係を考えなければいけません。このような本は誰もが手にすべきです。」彼女は紫金草の種を持ち歩き、川辺や草地に撒いて、全国各地にこの花が咲くことを願っている。

藤後博巳は紫金草合唱団に入った時既に73歳だった。彼は若い時の写真を持ち歩いていたが、それは中国人民解放軍の軍服を着たものだった。15歳の時、中学校で学んでいた彼は国家の呼びかけに応じて中国東北地区に渡って義勇軍訓練団に入ったが、1年半後に日本が降伏し、捕らえられて牡丹江の日本軍収容所に拘留された。年が少なかったのでシベリア送りを免れ、食堂を営む王という中国人に引き取られて滕東昇と名付けられた。彼はコレラにかかったが、東北抗日連軍に助けられた。その後志願して解放軍に入り、長春解放戦に参加した。更に長城を超え、長江を渡り、海南島の戦いにも参加した。8年間の解放軍での生活を振り返って彼は語った。「安東(現在の丹東)で自分がある農家のお椀を壊した時、厳しく叱られ、罰金を科されました。『民の物は一針といえども取るな。』,『壊したら弁償せよ。』これが解放軍の鉄の規律でした。こういう軍隊は必ず勝ちます。偶然ではありません。ですから私は解放軍を尊敬しています。」

1955年、藤後博巳は日本に帰り、「悲惨な戦争は絶対に繰り返さない。」という信念を持って、日中友好協会に入った。彼は彼を引き取ってくれた中国人の王さんと連絡が取れなくなって、大門に言った「私の望みは紫金草合唱団に入って中国に行って歌うことです。そうすればあの恩人に会えるかも知れません。生きている限り日中人民の友好の為に尽くしたいのです。」藤後博巳は紫金草合唱団に入ると中心人物となり、団長として毎年のように中国に行っている。

2017年の春、私が彼にインタビューした時、彼は言った。「私のように新中国建設の為に現地に残った日本人は中国人と一緒に生活して来ましたから、中国人との間に国家の対立を超えた友情が生まれています。中国は私の故郷です。日本の侵略に対する反省と謝罪こそが日中両国人民の友好なのです。私は戦争を体験した年代の者として、自らの戦争体験を多くの人に伝えないといけません。特に日本の若い人達に戦争の本当の様子を伝え、それによって彼らに戦争や、その体験に関心を持つように促したいのです。」

鳥居富江は合唱団に入った時既に70歳だった。中国東北の生まれで、終戦の時は5歳、各地を転々として日本に帰って来た。彼女が大門に語った。「ハルビンから帰る途中、沢山の中国人に助けてもらいました。胡蘆島では、ある家が一冬泊めてくれて、家族と同じように接してくれました。中国人は偉いです。私は彼らの敵の子供なのに、傷付けるどころか助けて面倒を見てくれたのです。一生忘れることは出来ません。生きている内は紫金草の歌を歌い続けようと思います。」別れの時、靴屋さんが綺麗な刺繍の靴を送ってくれて、彼女はそれを大切に持っているという。

伊藤一枝は1941年の生まれで、4歳の時に父がフィリピンで戦死し、弟と一緒に母一人に育てられた。小さい時、日本人は戦争の被害者だと思っていたが、その後、日本がアジアや南京でひどい事をしたと知って、戦争について反省するようになった。彼女は常々言っている。「私が紫金草合唱団で歌っているのは、日本がかつて加害者だったという事を多くの人に知ってもらい、行動で以て謝罪したいからです。」

新井田は金沢の人で、中学校の教師である。彼女の父は南京での戦いに参加していたが、彼女が何気なく父にその時の様子を尋ねると、顔をしかめて困った様子になり、何も言おうとしなかった。父の友人が訪ねてきた時、彼らは部屋を閉め切って話していたが、彼女は思わずその言葉を聞いてしまった。その後父は部屋で泣き出した。父が亡くなるまで、父が南京で何をしたのか分からなかった。紫金草合唱団の話を聞いて、応募した。南京に行く時はいつも父の写真を持って行き、「父の代わりに南京に謝罪に来た。」と言った。

丸岡明子は紫金草合唱団に入った時、既に80歳だった。彼女が大門に話した。「当時、新婚間もない頃でしたが、主人は徴兵されて戦線に出ました。その後、戦死の通知が来たので皆は嘆き悲しんだのですが、ある日突然主人が帰って来ました。軍が間違えて通知を出していたのです。二人で抱き合って泣きました。嬉しいやら、悲しいやら・・、戦争を恨みました。戦争ってひどいものです。私を紫金草合唱団に入れて下さい。昔、踊りを習ったので、振り付けが出来ると思います。体はまだ大丈夫です。中国の人に謝りたいんです。」大門は彼女を受け入れた。彼女は2年ほど歌い、南京にも3度行った。その後アルツハイマー病になり、人の顔も分からなくなったが、団員が見舞いに行った時に皆が紫金草の歌を歌うと、彼女も一緒に歌い出した。歌詞をきちんと覚えていて、施設の人たちを驚かせた。

坂東弘美は1947年に名古屋で生まれ、中京テレビのアナウンサーで、1999年から招かれて中国国際ラジオの日本語部で働いていた。彼女の父はかつて中国で戦った一人で、南京戦こそ参加しなかったが、中国人に申し訳ないと思い、そのことを家でよく話していた。その影響を受けたのか、紫金草合唱団の事を聞いて大門に連絡した。「私、語りをすることが出来ます。中国へ行く時は必ず連絡して下さい。父の代わりに行って謝りたいんです。」

山口誠太郎の故郷の茨城県では十数名が合唱団に応募した。山口裕、鈴木俊夫、長谷部さんらは合唱団の主力である。鈴木俊夫は山口裕の種まき活動をずっと支えて来たし、山口が中国へ行くときはいつも一緒に行って歌った。長谷部さんは山口家の隣人で、種まきを手伝い、日中平和の花園の建設に加わっていたが、彼女も合唱団に参加した。

紫金草合唱団の団員はそれぞれが物語をもっている。父親や親戚が戦場に行ったとか、甚だしくは南京戦に参加したりしていて、家族にその心の苦しみを話していた。団員は合唱に参加することで、歌によって平和への望みを表現していた。

大門高子は応募者の熱意に感動し、彼らの心情を汲もうとした。東京だけでも数百名いた。年齢は20歳から83歳まで、560代が6割を占め、教師、公務員、議員、医師、家庭の主婦などがいた。人数があまりに多かったので、地域で分けて東京紫金草合唱団以外に大阪、奈良、金沢、仙台、千葉、府中、埼玉などに紫金草合唱団が出来た。

紫金草合唱団の公演は公益性があり、各地の公的行事に積極的に参加し、その存在が知られていった。日本のあるマスコミは「紫金草物語は日本の音楽界で最初の、戦争を反省し、平和を呼び掛ける作品である。」と言った。

大門高子は退職女子教員全国連絡協議会の一員で、会のシンボルとして紫金草の図案で徽章やTシャツを作った。彼らのスローガンは“学生を再び戦場に送るな”だった。この会からも多くの人が合唱団に加わった。

合唱団員はほとんど日本人だが、影響力が大きくなるにつれて、日本に住む中国人の芸術家も参加するようになった。中国中央音楽院を卒業した二胡の奏者張勇、揚琴の奏者成燕、琵琶の奏者邵容,古筝の奏者謝雪梅が楽器の演奏に加わって来た。彼らは楽器の演奏を通じて、平和を愛する日本人と一緒に平和の願いを表現しようとした。

ある日、張勇が大門に言った。「この歌を中国で、特に南京で歌いませんか。歓迎されると思いますよ。日本に平和を愛する人がいるんだ、と言うことを中国の人たちに知らせるべきです。」大門高子はこの話を聞いて感激した。「それは私の望んでいたことです。私たちはもっとしっかり練習し、機会を探し、一日も早く、南京に行って歌いましょう。」彼女は今もずっと紫金草を皆に配る活動を続けている。

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