後   書   き

 私と二月蘭の結びつきは、20年近い歴史がある。最初に見たのは2000年の春、東京でのことで、それ以来私が生きて行く中で最も関心の高い、最も好きな花の一つになった。もともとはありふれた野草に過ぎなかったのだが、重いそして美しい記憶を背負っている。その故事がずっと私を感動させ、涙を流させているのだ。

私はかつて南京大虐殺について報道する記者で、何年も南京大虐殺に関する記事を沢山書いて来た。何人かの当時南京攻略戦に参加した旧日本兵と顔見知りになり、多くの平和を愛する日本の民間人たちと接して来た。長期間報道する中で、私は当時の南京大虐殺に関する歴史を伝えることに対して、どす黒い感じ、金切り声、常に切り裂かれる傷跡という印象を抱いていた。そのために私は心が重くなり、果てはもうこのテーマに接したくない、あの残酷な暗い雰囲気と向き合いたくない、とまで思うようになっていた。

私は、この80年前に起こった市民や捕虜を惨殺する事件は、絶対に人類の文明史に残る悲惨な事件の一つであると思うし、事件に参加した加害者は既に基本的な人間性を著しく失っていたと思う。そしてまた、首都さえも守り切れなかった政府は極めて無能な政府だと思う。人民にはそんな政府を埋葬してしまう理由が山ほどある。私はこの戦いで亡くなった人たちの魂のために号泣し、政府の無能さに憤りを覚える。この悲惨極まりない歴史の一ページに私は向き合いたくないのだが、かといって忘れたくもない。だから最近数年、関係方面が南京大虐殺を記念する活動において平和の理念を強調しているその考え方を、私は大いに支持している。私たちはいつも傷口を開いたままで生活する訳には行かないし、一日中文句ばかり言っていることも出来ないだろう。

二月蘭の故事を知った時、私の認識は大きく変わった。

その一つは、もう一度この歴史をつついてみようという気になったことだ。侵略戦争に加わった兵士が南京の紫金山の麓の二月蘭の種を日本に持ち帰って撒いたと聞いた時、私は疑問を抱いた。「南京には沢山の花がある。この旧日本兵は何故、わざわざ二月蘭を持ち帰ったのだろう。何故、余生を通して二月蘭の種を撒き続けたのだろう。大門高子は何故、紫金草合唱団を立ち上げて、何十年もずっと歌い続けて来たのだろう。」

もう一つは、それまでは南京大虐殺に関する故事はみなどす黒いイメージだったのに、この故事は紫色だったことだ。

それに、かつて自らが侵略戦争に参加したある程度の身分のある旧日本兵が戦争を反省し、過ちを悔い改めたと言うのは、何と言っても説得力がある。彼の反省は、自ら目覚めたものだ。彼が中国で見たもの、聞いたことが彼の良心を呼び覚ましたのだ。だから彼は紫金草の種を撒くという行動を起こしたし、その後多くの人が彼に追随し、褒めたたえ、彼の事業を継承した。口先だけのスローガンよりはるかに感動的だ。

私は山口誠太郎を尊敬している。軍人として相当の地位にありながら、当時の軍国主義教育の下で「これが天皇の軍隊のすることか」などと言うのは確かに勇気のいることだった。殺されたかも知れないのだ。彼は帰国後軍隊を辞めさせられたが、意に介せず、晩年はずっと至る所に紫金草の種を撒き続けた。彼の目には紫金草の一つ一つの花が亡くなった人たちの化身に見えたのだ。紫金草の花言葉は平和である。彼は日本と中国が二度と戦争をしないことを願った。彼の子供たち、中でも山口裕は彼の遺志を受け継いで種を撒き続けた。その平和を求める精神は尊敬すべきものがある。

私は大門高子を始めとする紫金草合唱団の団員にも敬意を表する。大門高子は作詞家として紫金草の故事をモチーフとして組曲紫金草物語を創作し、紫金草合唱団を立ち上げ、あちこちで演奏した。団員は全て自費で演奏活動をし、中国へ来て南京で演奏するのも全て自費である。ほとんど毎年来るし、年に複数回来ることもある。何の為なのか。彼らと接触していて分かって来た。彼らは一途に信じている。「日本と中国は永久に戦ってはならない。日本はかつて中国に悪いことをしたことを認めねばならない。たとえ政府が冷たい態度をとるとしても、日中両国の人民は互いに付き合って行くべきだ。」

二月蘭はありふれた花だが、戦争の記憶を背負い、死と反省と平和の意味を含むようになった。二月蘭の紫色は誰が見ても美しく、悲惨な戦争、無辜の死と強烈な対比を見せる。ある詩人が言っている。「美は悲しみを克服するだけでなく、恨みを消し去る。」だから私はこの花が好きなのだ。この20年、ずっと紫金草の故事の主要人物を追いかけて来て、彼らを報道しただけでなく、彼らと仲良くなった。毎年の春、私は紫金山の麓、南京理工大学に行って二月蘭を見るし、安徽の故郷の家の庭には二月蘭が植えてある。私は二月蘭についての散文を幾つか書いたが、この5年で二月蘭の故事をもとに長編小説を書いた。

長編小説を書き終わった後、何故ドキュメンタリー(実録物)を書こうとしたのか。

紫金草が海を越えて東に渡ったということは、今の所それほど人々に知られていない。それに話が伝わる途中で曖昧な点もあった。例えば、山口誠太郎は傷ついた兵隊で、紫金山の麓を歩いていて、ある春の日に6,7歳の少女に出会い、心が打たれたとあるが、実際はそうではない。山口誠太郎は兵士ではなく、少将という高い身分の軍人である。また、彼はどのくらいの種を持ち帰ったのか、十数粒とか数十粒とか言われている。息子の山口裕によると、80粒持ち帰り、23粒開花したそうだ。まだある。大門高子は何故、紫金草合唱団を立ち上げたのか。彼らは何故、毎年南京に行って演奏するのか、など。

二月蘭が日本に渡った故事をきちんと正しく表しておくのは、歴史に対する責任である。私は何度か日本に取材に行って、山口誠太郎の息子の山口裕、紫金草物語の作詞者大門高子と親しくなった。彼らが南京に来る時にはいつも会って、第一級の資料を受け取っている。そうして得た事実を還元することは、私の避けて通れない責任である。

南京にはもう一人、二月蘭の故事を語る資格のある人が居る。南京市対外友好協会の孫曼である。2001年に紫金草合唱団が初めて南京を訪れて公演した時、連絡を受け持ったのが彼女である。かつて名古屋大学に4年間留学した彼女は日本語が達者で、文学的素養もある。彼女はずっと紫金草合唱団と親密な連携を保っており、文才にも恵まれて二月蘭に関する文章も沢山書いている。彼女は紫金草の故事を伝える重要人物であり、彼女が私に提供してくれる資料は貴重なもので、私は彼女に敬意を抱いている。

大門高子は、私が紫金草委の故事を小説に仕上げたことを知ってとても喜んでくれた。2017年に紫金草合唱団が南京に来て公演した時、私は各団員に一冊ずつ出版したばかりの紫金草を贈った。大門高子に促されて中野勝がそれを日本語に翻訳して出版した。私が更に二月蘭の故事についてのドキュメンタリーを書こうとしていると聞いて、大門高子は大いに賛同して、色々な資料や写真を提供してくれた。

南京大虐殺史と国際平和研究院も私の仕事に賛同して、出版面で支援してくれた。

南京理工大学の宮載春先生は文化的情操に溢れた教育者で、大学と紫金草合唱団を関係付けて、メタセコイアの林の中の二月蘭の花園を和平園とした。彼は和平園の建設と舞龍隊の日本への招待公演の写真を提供してくれた。

南京出版社の社長の盧海鳴は、私のドキュメンタリーの話を聞いた時、それは南京のことだ、出版は南京出版社に任せなさいと言ってくれて、私はその親切な言葉に感動した。

原稿を仕上げた時は、もう2019年の春で、東郊の梅花山の春梅はすでに満開だ。紫金山の麓の二月蘭は既に目を醒ましてひっそりと伸び始め、もうすぐ紫色の花の海になるだろう。そして日本では筑波山の麓の紫金草も一面に咲き誇ることだろう。

1か月後には大門高子と紫金草合唱団がまた南京にやって来る。

この原稿の写真の撮影者は、姚強、崔暁、陳向兪、孫曼、陳正栄、宮載春、趙海玥、鄭鵬志、張晶であり、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館も一部の資料を提供してくれた。ここに謝意を表する。

                                20193

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