九、心は二月蘭に

 

二月蘭は元々中国に咲くごく普通の花に過ぎなかったが、80年前に日本の軍人が心を寄せて以来、日本に渡り、また中国に戻って、多くの人々に知られるようになった。歌や詩、絵になり、人々の注目を集めた。それは二月蘭が平和の花だからだ。

二月蘭の使者

南京市人民対外友好協会(南京市政府外事弁公室)アジア香港マカオ事務所長の孫曼さんは、紫金草合唱団から“二月蘭の使者”と呼ばれている。1972年に南京の音楽家の家に生まれ、小さい時からピアノ、アコーデオンなど楽器の演奏が得意だった。7歳で南京小紅花芸術団に入り、1980年代の始め、江蘇省と愛知県が姉妹都市になって芸術団が日本で公演した時に、愛知県日中友好協会の伊藤康二氏の家に泊めてもらった。伊藤氏は日中友好に熱心で、中国文化を愛していたので、彼女は中学生の時から日本語を習い始め、ずっと手紙のやり取りをしている。

伊藤氏の妹の夫の林哲郎氏は愛知工業大学の教授で、林夫妻は孫曼を娘のように可愛がった。高校卒業後、孫曼は名古屋大学文学部に入り、度々彼らの家を訪れ、日本語も上手になった。伊藤氏が彼女に言った。「あなたは高い語学力と、文化への深い理解、そして個人的な魅力の持ち主だ。あなたと接する日本人はきっとあなたを、南京を、そして中国を好きになるだろう。そうなれば大成功だ。」彼女が言った。「この26年、私は日本の首相から鹿児島県の小さな漁村の素朴なお爺ちゃん、お婆ちゃんまで色々な人に会い、一生懸命生きて来ました。伊藤さん、林さんご夫妻が血縁関係もない私を本当に良くお世話して下さったおかげで、私はしっかり働くことが出来ました。」

孫曼が名古屋大学を卒業する頃、中国の多くの若者は海外へ出ることを夢見ていたが、彼女は南京市人民対外友好協会に入り、友好交流事業に携わることにした。日中間の歴史において、南京は特別な意味を持った都市である。彼女が言った。

「伊藤さん、林さんご夫妻はいつも私に、日中交流の為に働くようにと励まして下さいました。私は一人の南京人として、ある種の使命感、責任感を感じていました。留学中から就職後まで、私は色々な日本の方々と接して来ましたが、皆さん善良で、友好的で、情熱に溢れ、真面目です。しかし、私は南京人として歴史に向き合わなければなりません。南京大虐殺は避けて通ることの出来ない話題なのです。」

日本人の中にはこの話題を避ける人もいるが、彼女は逃げようとはしない。日本人に自分が年上の人から聞いて来たことを話す。彼女と接した日本人はみな、彼女は外見こそ柔らかいが、心は強く、しっかり仕事をする人だと言っている。

彼女の最初の仕事は、南京城修復の為に訪中する日本の代表団を迎えることだった。

「その年、私は平山郁夫先生にお会いしました。ご一緒の日本の方々は本当に日中友好に熱心で、私は忙しいながらとても充実した日々を過ごしました。日中友好はレンガのように一つ一つ積みあげて行かねばならないのだと感じました。」

彼女は南京と日本の交流では、常に細かいところまで気を配って、きちんと仕事をした。

1999年、中国の駐日大使館文化参事官の耿墨学の紹介で、孫曼は大門高子と出会い、その時から紫金草合唱団との20年近い付き合いが始まった。彼女は日本にこのように平和を熱愛する人たちが居ることに感動して、必死に働いて紫金草合唱団の南京公演にこぎつけた。その後の10年、紫金草合唱団は毎年南京を訪れ、孫曼は一生懸命に接待の仕事をし、また通訳を務めた。山口裕など多くの団員とも親しくなった。前田さんが入院した時は見舞いの手紙を送り、亡くなった後はご主人にお悔やみの手紙を書いた。千葉の団員が「社区での学習会の為に南京大虐殺写真集を使いたい。」と頼んだ時には、雨にも関わらず本を買いに出て、日本まで送った。紫金草合唱団が山口裕の故郷の石岡で紫金草物語の講演会を催した時、彼女はアコーデオンで伴奏した。合唱団が南京に行ったときは常に彼らと一緒に行動した。彼女が言った。

「皆さんはこの10年というもの、地震に遭うなど家庭で色々困難なことがあったにも関わらず、本当に熱心に活動して来られました。全部自費でしょう。南京に来ても、虐殺紀念館や南京理工大学へ行くだけで、あまり観光はせず、『私たちは歌うために来たんです。』と言われます。私は合唱団の人たちとも親しくなり、まるで私自身が合唱団の一員になったみたいです。」

彼女は小さい時から南京に咲いていた二月蘭を見て育ち、その後、二月蘭が日本に渡った故事を聞き、仕事に精通するようになってからは、南京のより多くの人々に紫金草の故事を知って欲しいと思うようになった。中学の時に全国十名優秀文学少年に選ばれた彼女は文章も上手である。空いた時間を利用して紫金草の故事を紹介する文章を書いている。2001年に紫金草合唱団が初めて南京で公演した後、彼女は南京から日本に渡った紫金草という長いニュースレポートを書いて、“揚子晩報”に発表した。

“二月蘭”が“紫金草”になるまで、“人に知らせる”から“誰でも知っている”になるまで、孫曼は懸命に働いた。彼女が言った。

「私はこの20年来、50回以上日本へ出張し、仕事上沢山の日本人と会いましたが、多くの民間人は歴史を正視しています。ある時、宴会場で私たちが南京から来たと知った従業員の方が、深くお辞儀をして『申し訳ありませんでした。』と言われ、その真剣な態度に感。動しました。私は歴史に向き合う時、ごまかしたくはありません。私は南京人で、南京はかつてひどい目に遭いました。私は新時代の使者であり、橋渡しをする者です。私は両国民の間にいつまでもわだかまりがあるのは嫌です。友好的に交流したいのです。」

孫曼は仕事の合間に、頼まれて.“揚子晩報”の“東京物語”というコラムに、日中文化交流で出会った印象に残る人々や出来事を書いている。また“スーパー整理術”、“神の如き達人”などの日本の書籍を翻訳して出版し、読者から好評を得ている。二月蘭の故事が広く知られるようになってからは、多くの“ファン”が現れ、彼女の微博にもメッセージが載るようになった。ある大学生が言った。「ありがとうございます。あなたの文章で紫金草の故事を知りました。紫金草は美しい花、平和の花です。こんな美しい話が知られていないのは残念です。もっと多くの人が知るようになれば素晴らしいと思います。」

小説紫金草”

私が小さい頃、故郷の安徽省には二月蘭が咲いていた。南京に来てからも、南京市の花である梅にしか注目していなかった。2000年にたまたま東京に行ってから、私の目はこのありふれた紫色の花に引き付けられてしまい、それから20年近い月日が経った。当時、私は南京大虐殺のレポートを書く記者で、資料を集める中で東史郎に注目していた。彼は南京大虐殺に加わり、戦後日記を書いて当時の事を懺悔したことで右翼の攻撃を受けていた。私は彼をインタビューして、いつか彼をテーマに小説を書こうと思ったが、そのあまりの悲惨さに打ち砕かれ、心が折れかけていた。

2010年の春、記者の私は南京大虐殺紀念館の“和平園”にある“紫金花の少女”の像を見て「何故こんなものがあるのだろう。」と疑問を抱き、調べて行く内に紫金草の故事を知った。その時、暗い記憶の中に紫色の電撃が走ったような感じがした。南京の歴史は忘れてはいけないのに、悲惨さに負けて抜け出せなくなっていた。しかし、生きていると前に進まないといけない。そこで私は心して二月蘭のイメージを歴史に綴り、記憶に表そうと努めた。10年以上も取材をし、大門高子、山口裕とも親しくなり、二月蘭に関する多くの記事を書き、テレビの特別番組を制作したり、散文を書いたりした。その内に私の脳裏には、これを小説にすることは出来ないかという思いがつのって来た。

南京大虐殺の時の指揮官柳川平助の放った「山川草木これみな敵なり。」という言葉に痛く心を傷つけられたが、その一方で日本の軍人が戦争に反対し、二月蘭を懺悔と平和の象徴とみなしていたことに勇気付けられた。日中両国は自分の立場ばかり言い合っていても良い事は起こらない、互いに共通点を見つけるべきだ。まさにそれが二月蘭(紫金草)だ。

ここ数年、南京大虐殺に関する研究は進んで来ているし、多くの出版物が出ているが、私は歴史研究の頂点には文学があるべきだと思っている。大衆は歴史を書いた大作は読むことが出来ない。具体的な、感情に訴えるものこそが人の心に残る。この時こそ文学芸術の出番である。歴史の事実を人の心、特に若者の心に届けるのだ。私は南京の作家として、マスコミの人間として、南京の歴史を熟知した記者として、より多くの人に80年前の悲惨な出来事を伝える責任があると思った。ただ単に歴史を綴って宣伝しただけでは、今の若者には受け入れてもらえない。作家は故事を上手に語り、人の心に刻みつけていくべきだ。二月蘭の故事は人に訴える力がある。昔、オリーブの樹は平和のイメージを持って、世界に受け入れられたではないか。二月蘭だって南京の記憶を残す平和の花になることが出来る。そう考えて、私は小説の構想を練り始めた。

私は取材中にある疑問を抱いた。「山口誠太郎は南京に滞在した期間はそれほど長かったわけではないのに、何故あれほど二月蘭に執着したのだろうか。」日本に取材に行ってこの謎が解けた。彼が二月蘭の種を日本に撒いたのは、彼が参加したのが侵略戦争であったということに対する反省と懺悔の気持ちが込められていたからだ。彼はより多くの日本人に、日本が行った残虐行為と南京人の受けた被害を認識して欲しかった。平和の尊さを訴えたかったのだ。

私は歴史を尊重する立場から、みだりに史実を捏造してはならない、内容は事実に基づくべきだ、登場人物にはモデルがいる、内容は心温まるものでないといけないと考えた。執筆に取り掛かる前に長い時間をかけて南京大虐殺に関する研究資料を集め、日本の歴史を研究し、日本人の心理を探り、5年という長い月日をかけてこの小説の初稿を書き上げ、2017年の春に出版した。小説の内容は次の通りである。

1939年の春、日本陸軍衛生材料廠廠長の山口誠一は、前線の医薬衛生材料の状況を視察にやって来た。約3カ月間の滞在中に彼の見たものは日本軍による残虐極まりない暴行で、彼は戦争に対する強い反感と怒りを抱くようになった。

ある日彼は南京の東郊の紫金山の麓に来た時、紫色の二月蘭が一面に咲いているのを見て、そこで6,7歳の少女に出会った。その少女は重病で、彼は友人と一緒にその子の命を救ってやった。日本に帰る前、彼は再度そこに来て、二月蘭の種を採集し、日本に持ち帰って庭に植えた。次の年、花が咲き、その花を紫金草と名付けた。

帰国後、彼は反戦思想の持主として軍役を解かれたが、反戦思想を貫いた。彼は南京で会った少女の写真を持っていたが、それは取材に来た記者によって新聞に載った。当時、少女の父親の江一山が日本に留学していて、写真を見て山口誠一に会いに来た。彼は帰国後、少女が大きくなった江雪若と岳父に出会い、一緒に再び日本に来る。江雪若は絵の勉強を始め、山口誠一の息子の仁見と恋仲になる。

1953年、江一山と岳父は中国に帰るが、江雪若は日本に残って勉強を続ける。1957年、江雪若は岳父が病気になったという知らせを受けて中国に帰るが、そのまま日本に戻って来られなくなってしまい、仁見と連絡が途絶えてしまう。

山口誠一は残りの半生を紫金草の種を撒くことに捧げ、亡くなる前に3人の子供に、種を撒き続けるように、将来南京に行って、紫金草の花園を造り、紫金花の少女の像を造るようにと頼む。

帰国した江雪若は画家として成功し、地位を築く。1972年の日中国交正常化後、彼女は中国の芸術団の団員として訪日し、山口家を訪れるが、山口誠一は既に他界し、その妻に会えただけで、仁見は再婚して子供がいることを知り、寂しく帰国する。1978年、南京市と名古屋市が姉妹都市になり、二月蘭と名前を変えた江雪若は再び訪日する。山口仁見はそれを知って彼女に会いに行くが、面会出来ないまま彼女は帰国する。

2007年の春、仁見は南京に行き、父との約束を果たす。紀念館を見学した時に江雪若の絵らしきものを発見し、彼女の後を追うが・・

(以下省略)

2012年、山口仁見はこの世を去った。

“紫金草”には40人以上の人物が登場するが、色々なタイプがある。

一つは実際のモデルを元に描いた人、例えば山口誠一は山口誠太郎、山口仁見は山口裕、江雪若は山口誠太郎が南京で出会った6,7歳の少女である。

他の重要人物にもモデルはいる。高橋森雨とか鈴木俊夫一家などは山口家の隣人で一緒に種を撒いた人達、軍医の佐郷美理子は佐郷渥洋子、詩人の大門由子は大門高子、作曲家の大西月は大西進などである。

もう一つは完全な歴史上の人物、例えば731部隊長の石井四郎、増田知貞、日本の幹部軍人の小泉正彦、吉本貞一、河辺正三、原田熊吉、外科医のウィルソンなどである。

また小説の中に出て来る毒酒事件も実際に起こった事件を元にして描いている。

小説を書きあげた後、私は表紙の扉に山口誠太郎氏と山口裕氏に対する尊敬の念を表しておいた。

“紫金草”46万字は20173月に江蘇省文芸出版社から出版され、南京先鋒書店で行われた発刊式の席で江蘇省作家協会主席の範小青が挨拶した。

「作者は素晴らしい仕事を成し遂げた。激しい悪と激しい美を融合させるのは、簡単な事ではない。主人公の山口は悲惨な環境の中に二月蘭という美を見いだしたが、作者も同じで、大虐殺の資料を扱いながらも本全体に平和と愛を溢れさせている。これは人類の平和に向かう気持ちと、善を愛し、美を愛する気持ちを体現している。」

私の今の最大の望みは、いつか映画監督がこの小説“紫金草”を映画化して、より多くの人に紫金草の故事を知らせてくれることである。

紫金草合唱団の一員である日本の友人中野勝氏は、2018年に小説“紫金草”を日本語に翻訳して出版した。

二月蘭を讃える詩

山口誠太郎について、彼は詩人なのかと思うことがある。これについて息子の山口裕に尋ねると、彼は「父は中国の薬草を研究していましたから、色々な植物がとても好きで、花を愛していました。また中国の伝統文化が好きで、文学も好きで、俳句も作っていましたが、残念ながらそれは残っていません。」と答えた。彼は専門的な詩人ではなかったけれど、自然や命を愛し、心が豊かで、感覚の鋭い人だったと思う。彼は自分の審美感、戦争への反省、平和への祈り、生命の尊重、それら全てを紫金草という野の花に託したのだ。

私は小説紫金草の中で、山口誠一を通じて二月蘭に関する詩を幾つか書いている。

庭に撒いた種が次の年に花開いた時(詩は省略)

紫金花娘が現れた時(詩は省略)

山口裕も父と同じく医学博士で、花を愛し、父の遺志を継いで種を撒き続けた。彼は2001年に初めて南京を訪れた時“平和の誓い、紫金草”と題していくつかの短歌を作っている。(短歌は省略)

そして大門高子もまた詩人である。紫金草物語自体が詩そのものである。

(第二楽章、野の花物語、省略)

(第七楽章、雨の紫金山、省略)

(第十二楽章、平和の花 紫金草、省略)

南京理工大学は理系ではあるが、構内には詩歌の雰囲気が漂っている。詩人の黄梵、文芸評論家の張宗剛という二人の教授のおかげで詩学研究センターが作られた。2006年には日本の紫金草合唱団が訪れ、構内の二月蘭は“紫金草―平和の花”と呼ばれるようになった。この年から二月蘭の咲く頃に“平和の春”と呼ばれる二月蘭文化祭が催されるようになった。2008年の二月蘭文化祭では、孫友田、馮亦同、蘭蘭、徐明徳、陳永昌、葉慶瑞、胡弦など20名以上の南京の詩人を招いて、二月蘭を眺め、紫金草の故事を味わった。

74歳の詩人馮亦同が作った詩紫金草(省略)

詩人の胡弦が即興で作った詩紫金草(省略)

20103月、第五回平和の春文化祭では二月蘭詩文コンクールが開かれた。

一等に輝いた南京の詩人季川の詩(省略)

20153月の第十回平和の春文化祭では二月蘭詩社が南京の20名の詩人を招いて二月蘭を鑑賞し、平和を詠った。そして詩を募って大美二月蘭という詩集を作った時には、半年で500篇もの詩が集まった。

化工学院の学生袁園が二月蘭”に書いた詩(省略)

電子工程與光電技術学院の学生項聡の守望和平(省略)

公共事務学院の学生韓笑が如今、鮮血里開出鮮花に書いた詩(省略)

材料與工程学院の学生丁昱の.二月蘭(省略)

機械工程学院の学生路佳旗の二月蘭(省略)

詩人で南京理工大学の教師の江雪の二月蘭沈黙地開了(省略)

南京の有名な詩人李朝潤の紫金草・二月蘭(省略)

謝意偉が最初の国家告別式の日に創った二月蘭・紫金草(省略)

二月蘭は今や、只の美しい野の花に留まらず、南京大虐殺の重い記憶を背負い、平和の意味を含み、そして人類に日中両国の関係を連想させる一種の旗印になったのである。

二月蘭を描く

大門高子が言った。「私たちは紫金草を歌うだけでなく、描く必要があります。歌は大人の為ですが、絵は子供の為です。」

一人の教師として大門高子は、教育は子供の時に始めるべきだということを良く知っていた。子供たちに正しい戦争観を持たせるには、小さい時から平和の大切さを教えるべきである。彼女は組曲紫金草物語を作っている時、同時に児童読本の構想を練っていた。東京芸術大学卒の画家松永貞郎は児童文化貢献賞を受賞したことがあり、教育に対して高い関心を抱いている。大門高子は松永貞郎に紫金草の故事を詳しく話し、松永はそれに強く引き込まれた。彼は、「山口という人は凄い人だ。歴史に面と向き合い、反省している。こういう人をもっと日本人に知らせるべきだ。」と思った。

大門は松永に紫金草の植物としての特性を教え、紫金花が実を結ぶ頃に種を取って、彼に見せに行った。松永は大門の熱心さと誠実さに感動し、絵を描くことを承知した。そうしないと、大門氏にも山口氏にも申し訳ないと思ったのだ。彼は必死に絵を描いた。

1999年、児童読本むらさき花だいこんが出版された。あらすじは以下の通りである。

一人の日本兵が徴兵されて中国大陸の戦線に送られた。彼は流れ弾に当たり、南京の紫金山の麓の病院に入った。窓からは紫金山が見え、丘の上に野の花が見えた。ある日、彼が杖をついて病院を出て近くの山に登ると、そこには紫色の花が一面に咲いていた。突然、6,7歳の少女が花を摘んでいるのが見えた。少女は日本の軍人を見て、恐ろしそうな、憤りに満ちた表情を見せた。兵士が優しく彼女に近寄ると、彼女は手にしていた花を兵士に差し出した。兵士は心を動かされた。帰国にあたって、彼はわざわざこの丘に来て、紫色の花の種を集め、帰国後、自分の家の庭に撒いた。種はすくすくと育って、芽が出、春には紫色の花が咲いた。兵士はその花を紫金草と名付け、戦争に対する反省からあちこちに撒いて行った。列車の窓からも撒いたりして、花は全国に広まって行った。戦後、人々は平和な世の中で紫色の花を味わうようになった。しかし、どれだけの人がその花が中国の南京から来たということを知っているだろうか。

松永貞郎が描いた18枚の絵は、簡潔で分かり易かった。表紙は紫色の花で、真ん中に白い蝶々が飛んでいた。それは平和の女神だった。表紙には次のように書かれていた。

「あなたは、春の光の中にさくむらさきのなの花を見たことがありますか。」

そして裏には次の言葉があった。

「人には、忘れられないこと、忘れてならないことがあるのです。これは中国の大地から、南京から持ち帰られたむらさき花だいこんです。大人も子供も是非この本を読んでみて下さい。」

むらさき花だいこんは新日本出版社から出版され、青少年に愛読された。小学六年の男子生徒が大門に手紙を寄せた。「絵本を見て、紫金草の話を知って、日本軍が中国大陸でひどいことをしたことを知りました。だけど、今の歴史の教科書にはこのことは出ていません。」

ある母親が大門に手紙を書いた。「感動的な物語を書いてくれてありがとうございます。このような平和の物語で子供を教育し、平和の大切さを教えることは、とても有意義な事だと思います。」

大門高子が私に語った。「この絵本は出版後、想像以上の大きな反響を呼びました。松永先生の絵は本当に素晴らしく、子供たちは喜んで読んでくれます。今、平和をテーマにした絵本はあまり売れてなくて、児童文学作品も少ないのですが、このむらさき花だいこんは既に20版印刷されて、時々品切れになることがあって、出版社も信じられないと言っています。」

1990年以降に生まれた圏圏は南京の挿絵画家である。偶然、紫金草の故事を聞いて感動したが、紫金草が二月蘭だとは知らなかった。2016年の春、彼女はインターネットで多くの人が紫金草行動という植草記念活動に参加しているのを知って、紫金草が二月蘭だと分かった。彼女は自分たち若者が南京の過去を良く知らず、子供たちはもっと知らないことから、シリーズものの作品を創って紫金草の故事を知らせようと考えた。彼女の紫金草物語12枚の絵からなっていて、簡潔で分かりやすく、児童には読みやすい。彼女は今、書店で働いて、いつも紫金草物語の話をしている。

「子供たちに二月蘭の絵を描かせたらどうだろうか。どうして二月蘭を描くのと尋ねて来るから、大人も話題にし易いだろう。」と張建軍館長は思った。3月中旬、紀念館は紫金草描画大会を開くことを発表した。3日間に500人以上が応募があり、紀念館は200人を選んで、328日の朝、紀念館の広場で実施した。専門の画家、美術愛好家、大学生、小中高校生、日本の友人松岡環さん、南京大虐殺の生き残りの洪桂、伍秀英、更にドイツやアメリカの友人も参加した。朝から晩までかかって会場には沢山の紫金草が描かれ、上から見ると壮観だった。紀念館の職員がその様子を写真に撮って大門高子に送ると、彼女は感動して「こんなに多くの人が参加するとは、ますます多くの南京の人が紫金草の故事を知ってくれて、私たちもやりがいがあります。」と言った。

二月蘭の研究

四川大学マスコミ学教授の黄順銘が言った。「紫金草を研究する目的は、南京大虐殺を記憶する紋を探すことです。記憶の紋というのは、イメージ、記号、文字、事件などで構成され、紫金草は一つの重要なイメージとして、既に南京大虐殺の記憶の紋になっています。」

小さい頃に重慶で育った黄順銘は二月蘭をありふれた花だと思っていたが、2011年からこの花に注目するようになった。その年に浙江大学のマスコミと文化学院の李紅濤教授と一緒に教育部人文社会科学研究部で忘却の記念に:南京大虐殺の集団的記憶の構築と伝播を受け持ったのである。南京大虐殺紀念館は毎年、清明節や抗戦勝利記念日、国家告別式など節目の日に皆で一緒に行動するマスコミ行動を行っている。例えば2014年の第一回国家告別式の前日には、新華報業集団が仮想城壁献瓦行動を、江蘇省電視台が平和の樹行動を、南京放送局が紫金草行動”を行っている。黄順銘は、「これらはそれぞれ創意に溢れているが、その中心となるイメージはばらばらなので、統一されるべきだ。」と思った。紫金草という聞きなれない花が、実は二月蘭のことだと分かって以来、彼は紫金草について徹底的に調べ出した。そして紫金草がシンボルとして最もふさわしいと思った。

数年来、南京大虐殺に関する研究書は多く出されているが、マスコミの角度、特に記憶の角度から見ると、新しい発見があり、集団記憶の再構築はあまりなされていない。黄順銘と李紅濤の記憶の紋:メディア、トラウマと南京大虐殺は新しい観点からの著作であり、「国家権力と、地方の記憶組織、大衆メディアが、如何にして南京大虐殺の現代における集団記憶を創り出し、その過程での得失を探るべきか」を示している。彼らはここ数年、紫金草というイメージがますます公的機関や大衆の注目を浴びるようになったことに注目した。彼らは、紫金草のイメージは集団記憶の形成と再構築に大きな役割を果たすことが出来るのではないかと考え、その道を探っている。

彼らは考える。「紫金草の記憶旅行は物語性があるだけでなく、思いがけない効果がある。旧日本軍の兵士が種を持ち帰り、日本で根付き、開花し、平和の意味を持たせた。平和を愛する人たちが歌を創り、合唱団が再び紫金草の種を中国に撒いて歌を歌う。紫金草の記憶旅行は相互に絡まる記憶の場を創った。記憶の場の意味する所ははっきりしている。平和である。それは共通の記憶であり、和解を促す可能性がある。紫金草は南京大虐殺の記憶の景観であり、日中がより広い範囲で認める記憶の地図、更に地球全体の記憶の地図になる可能性がある。」

私が彼に「紫金草はより広い範囲で人々に認められる平和のシンボルになれるだろうか。」と聞くと、彼は答えた。「第一次世界大戦の時、ベルギーとフランスの国境のフランダース地方で激しい戦闘が行われ、多くの兵士が犠牲になりました。19155月、一人の軍医が戦友の遺体を埋葬しようとした時、ケシの花が一杯に咲いていたのを見て、感動してフランダースの戦場にてという詩を書きました。その後ケシの花はイギリスで追憶の花とみなされるようになり、毎年1111日は栄軍の日として女王から市民まで、紙で折ったケシの花を身に着けて哀悼の意を捧げています。ケシの花は特別な意味を持った花になったのです。ケシの花が特定のシンボルとしての意味を持ち、広く人々に認められるようになったことから見て、紫金草も平和のシンボルになる可能性が十分にあります。」

黄順銘のこの考えに私も賛成である。

近年、日中関係は冷え込み、考え方の違いはますます大きくなっている。もしお互いが自分の立場ばかり主張しあっていたら、友好関係を発展させることは紙上の空論に陥ってしまう。良識ある人は、日中双方が誠意をもって違いを乗り越え、共通点を探すべきだと言っている。そんな状況下で紫金草が双方の共通点になることは簡単ではない。このような観点に立って、黄順銘、李紅濤の二人の若い学者は紫金草を和解を促進するシンボルになりうるとみなしている。黄順銘、李紅濤はどちらも1970年以降に生まれた学者である。黄順銘は重慶、李紅濤は黒竜江の人で、香港都市大学マスコミ学の博士課程で学んでいた。二人とも南京とは直接のつながりはないのに何故紫金草を研究しているのか。黄順銘が言った。

「南京大虐殺は既に地方の記憶から民族の記憶、国家の記憶、世界の記憶へと昇華しています。集団記憶の研究者としては、南京大虐殺の記憶を生成する責任があり、義務でもあります。研究の目的は歴史をよりはっきりと目に見えるようにすることなのです。」

黄順銘は南京大虐殺について熱心に研究し、紀念館の人よりも詳しくなり、5年をかけて李紅濤と一緒に20万字の記憶の紋という本を書いた。その後、2018124日に光明日報が潘宇の文章歴史はどのように記憶されるべきかを載せて、彼らの研究成果を紹介した。記憶の紋は日本でもイギリスでもそれぞれ出版社が版権を買っている。

南京大虐殺の記憶については既に2015年に終わったが、二人の若い研究者の研究は終わることはない。彼らの次の課題は二月蘭(紫金草)の伝播と影響である。黄順銘が言った。

「集団記憶は伸び続けることもあれば、断ち切られることもあります。伝承されることもあれば、歪曲されることもあります。しかし現在の問題は、伝える必要があるかどうかではなく、どう伝えるかという事です。多くの人の南京大虐殺の記憶は、歴史の本に載っている概念の紹介だったり、日本に対する恨みに留まっています。南京大虐殺の記憶をどのように長く効果的にするか、それを文章に表し、イメージを作って行かねばなりません。私たちは今、紫金草をテーマとした研究を進めていますが、二つの問題があります。一つは名称です。二月蘭には紫金草と言う別の名前があり、南京人だけでなく全国の多くの人は紫金草の故事を知りません。もう一つは紫金草の持つイメージが不確定な事です。山口誠太郎氏は亡くなった人の霊魂が乗り移ったものだとし、紫金草行動では草の根精神を、南京理工大学では落ち着いて、素朴で、寒さに耐えることを強調しています。二月蘭が多様な意味を持つことは良い事ではあるのですが、創建者としては分かりやすい考え方が必要です。どうすればいいのか、もっと研究しないといけません。」

黄順銘が私に言った。「私は今では二月蘭がとても好きになりました。私の家のベランダには二月蘭が植えられていて、ここ数年、春になると花が咲いて、とても可愛いです。」

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