八、紫金草行動

 

南京の災いは国家の災いであり、民族の災いである。

南京の痛みは国家の痛みであり、民族の痛みである。

南京の恥辱は国家の恥辱であり、民族の恥辱である。

20053月、全国人民代表大会と政治協商会議において、全国政治協商委員の趙龍が、1213日を国家告別式とすることを提案した。

20123月、全国人民代表大会と政治協商会議において、全国人民代表大会代表で南京芸術学院院長の趨建平は1213日を国家告別式とすることを議案として提出した。

2014227日、第十二回全国人民大会常任委員会第七次会合は、1213日を南京大虐殺犠牲者国家告別式とすることを決定した。

一都市の告別式から国の告別式になったことは、恨みを飲んで亡くなった霊魂を安らげるものである。それは恨みを忘れないためではなく、平和を求めるためである。

最初の告別式の前に南京の人々は、どんな具体的な形で哀悼の意を表そうかと考え、南京放送局が二月蘭(紫金草)を選んで、1124日に社会に向かって‟紫金草行動序言を発表した。

「(南京大虐殺について―省略)

国家告別式は、国家による厳かな儀式で犠牲者を弔うだけでなく、民間人による平和を思い、殺戮を憎む自発的な活動でもあります。どのように思いを伝え、力を結集するかを考えた時、私たちは紫金草を思いつきました。

(山口誠太郎が二月蘭の種を持ち帰って撒き広めたことについて――省略)

紫金草行動はこれに由来しています。私たちは紫金草のバッジを創りました。出来るだけ多くの方がこのバッジをつけて告別式に臨んで欲しいと思います。インターネット上に紫色の悲しみ”というウェブページを開設しましたので、ここに哀悼の言葉を残すことが出来ます。私たちは紫金草のバッジをつけて犠牲者の埋葬された墓地へお参りに行きましょう。紫金草を一株植えたら、一枚のバッジを差し上げます。この素朴なやり方で、あの屈辱的な歴史を記憶に留めましょう。」

紫金草行動は南京インターネットテレビ局が特別に設けた紫色の悲しみというウェブページに登録を呼びかけたもので、パソコンやスマホでタッチさえすれば一株の紫金草を植えることが出来、ページ上で「あなたは第*番目の植栽記念者です。」と教えてくれる。主催者は更に四枚の紫色の葉っぱの中央に黄色の花の芯をあしらった紫金草バッジを創り、インターネット上で紫金草を植える活動に参加した人にはバッジを1枚渡すことにした。

インターネットの時代、互いに伝えていく力は大きなものがある。若い人に受け入れられ易いこのやり方は多くの人の注目を浴び、次々と植える人が増え、南京大学、南京師範大学、南京郵電大学、南京理工大学の学生たちはグループでこれに参加した。毎日数万人、数日で70万人がこの活動に参加した。以来、毎年国家告別式が近づくと南京放送局はこの活動を呼びかけている。

2015年、第二回紫金草行動が始まった。依然としてインターネット上でのお参りを呼び掛けていたが、スマホの特性に注目して紫金草点灯専用ページを起こした。これを押すと紫金草が点灯し、「植えられました。」と表示されるのだ。更に家脈1937という欄を設けて、1937年当時の各家の様子が分かるようにした。

2016年にはまたホームページのデザインを変えて、紫金草ハガキがもらえるようにした。

2017年は大虐殺の80周年で、紫金草行動は一段と活発だった。江蘇省の有名人が何人も登場して活動への参加を呼び掛けた。ホームページも水やり開花などが出来るように改善された。

2018年の紫金草行動は2つの特徴がある。一つは、運動が海外に及んだことで、主催者は南京外国語学院交友会、欧米の同窓会と連絡をとり、彼らを通じて海外でもインターネット上で紫金草を植えることを勧めた。アメリカ、エジプト、パキスタン、日本など20数カ国の友人がインターネット上で告別式に参加し、その内19万人が紫金草の像を交換した。もう一つは、インターネットの外でも活動を増やしたことで、2週間に渡る活動期間中に50以上の活動を繰り広げた。例えば、ボランティアを募って南京航空航天大学、暁庄学院、南京商業学校及び社区に紫金草を宣伝して回ったり、100件の家庭の子どもたちに六合区で紫金草を植えさせたりし、金陵図書館は我が家の1937の手紙を展示し、若者のボランティアが南京大虐殺の犠牲者を埋葬した場所に行って、紫金草の種を植えた。

2018年までに5紫金草行動が行われ、参加者は毎年増え、影響は拡大して行った。全世界で25カ国の308万人のインターネットの友人がインターネット上で紫金草を植え、毎年40か所で外の活動が行われ、10万枚の紫金草バッジが発行され、微博では14000万回閲覧された。紫金草行動は江蘇省の十大インターネット公益活動のトップの称号を頂いた。3回続けて紫金草行動に参加したボランティアの王詩婕が言った。

「紫金草は歴史の記憶であり、平和の象徴でもあります。当時、山口誠太郎は日本で紫金草を撒きましたが、私たちはインターネット上で紫金草を撒いています。私たちは紫金花が世界中に咲くことを願っています。」

大門高子は紫金草行動について語った。「こんなに沢山の方が紫金草行動に参加して下さって、とても感激しています。紫金草の影響力はますます大きくなって行きます。私たちは紫金草を歌い、南京の若者はインターネット上で紫金草を植えます。私たちの目的は同じで、平和の理念を伝えていくことです。」

2015年、紀念館で235カ月にわたって館長を務めた朱成山が定年で退官し、長年宣伝部で働いていた張建軍が後を継いだ。真面目な人柄で、考えが幅広く、宣伝のことをよく知っていて、インターネットの時代に何をすべきかを考えていた。南京放送局が紫金草行動で成功を収めたのを見て、啓発された。インターネットの時代はニュースが爆発的に増える。人を引き付ける具体的な目印が無いと人々にアピール出来ない。

新任の館長は二月蘭(紫金草)に思い至った。

新任の館長は生粋の南京人であり、紫金山の一木一草を良く知っていて、数年前に紫金草の故事を聞いて感動し、わざわざ紫金山へ見に行った。そして二月蘭を紀念館のシンボルにしたいと思った。賛成する者もいたが、反対する者もいた。二月蘭はどこにでも育ち、寒さにも耐え、生命力が強いなど、南京人の気性と似通っている。大門高子と紫金草合唱団は普通の民間人で、歴史を反省し、平和を願い、10年来平和の歌を歌って来た。ここ数年、二月蘭の故事は南京人にも知れ渡り、紫金草行動も高まって来た。二月蘭、紫金草は平和の花だ、私たちの目的はこのシンボルによって人々に歴史を忘れさせず、現在の素晴らしい生活を大切にさせることだ。彼は紀念館の館長として紫金草――平和のシンボルにまつわる一連の活動を始めた。

南京大虐殺の歴史を研究して来た学者の黄順銘が言った。「2015年末から2016年にかけて、紀念館は意識的に紫金草バッジを南京大虐殺の説明の前面に押しだすようになった。」

紫金草のロゴの設計

張建軍は職に就くとすぐ、設計の専門家で南京でも有名な文化人の速泰熙を呼んで、紫金草のロゴの制作を依頼した。彼は73歳だが、かつて南京大虐殺の書籍の装幀を行っていた。半月後に彼はロゴを完成した。紫色の四枚の葉の中央に黄色の芯があるデザインで、簡明で紫色と黄色の対比が鮮やかである。このロゴは現在紀念館で宣伝に使われている。

紫金草工作室の設置

張建軍館長は、インターネットの時代は新しい媒体の影響力が大きいと考えて、紀念館独自の外部宣伝組織を持ちたいと考え、2016年に紫金草工作室を作った。マスコミやインターネットの会社から連れて来た9名の職員は、新しい媒体の制作と宣伝の仕方を良く知っていた。2011年から201810月までに工作室は微博に9636通発布し、ファンは19万以上だった。20018年の国家告別式当日,微博でニュースが投稿された回数は35億回、読まれた回数は76億回に達する。第五回国家告別式の日、紀念館は微博点灯紫金草活動を行なった。有名人の呼びかけに多くのファンが対応し、2日間で10万の有名人が参加し、2000のマスコミ、9000の政務微信微博公号、20000個の機構が活動に参加した。

紫金草叢書の出版

新館長の張建軍は、南京大虐殺に関しては大衆向けの読みやすい本が必要だと考えて、紫金草叢書(第一集6冊)を出版した。叢書の内容は、紀念館建設の過程、収蔵文物の紹介、南京大虐殺の史実、抗戦した老兵の経歴等で、第一集には斉康、袁秀などの文章と共に大門高子の文章も載っている。第二集以下は王暁陽、歩平の文章があり、どの文章も簡潔で十分に史実を語っていて、読み易くなっている。表紙の装幀は芸術家の速泰熙のもので、灰白色を主とし、和平の和の字を形作っている。

紫金草国際平和学校の創設

毎年紀念館を訪れる外国の若い学生は数万人いるが、彼らにより完全な形で南京大虐殺の歴史を知ってもらうために、紀念館は紫金草国際平和学校を創り、専門家の講座や生き残った人を招いての証言などを通じて考えさせ、研究させる歴史教育を始めた。学校はこの後の2年間に、ドイツ、ノルウェー、オーストラリア、ザンビアなど30数カ国から400名の若者を学習に参加させることにしている。

紫金草平和講堂の建設

一般の人たちにも南京大虐殺の歴史の研究成果を知ってもらうために、紀念館南京大虐殺史と国際平和研究院は、20183月から毎月12回講座を開き、専門家を呼んで、来場した人たちと顔を合わせながら歴史知識を広めている。場所は紀念館1階の多機能報告ホールである。最初の回は、南京大学歴史学院の張生院長が、日本軍の華中方面軍司令官だった松井石根の責任について語った。第2回以降は、精華大学の劉江永教授、撮影師のクリス・マギー・・、第6回は江蘇省社会科学院研究員の王衛生などが講師を務めた。

紫金草ボランティアの募集

毎年紀念館を訪れる外国人見学者はとても多いが、紀念館の通訳の力量には限りがあるので、紀念館は紫金草ボランティアを一般公募した。すぐに反響を呼び、犠牲者の遺族、南京の高校生、企業の幹部、そしてアメリカ、フランス、韓国、日本などの国際的な友人など、多くの応募者が現れた。彼らは種々の外国語で説明している。

日本から来た吉川順子さんもその一人だ。2018年に応募した時は既に61才、日本の中国侵略の歴史を良く研究していて、中国へ来て学ぶために50歳から中国語の勉強を始め、2018年に南京中医薬大学に入った。彼女が記者の取材に答えた「インターネットでボランティアを募集していると知って、応募しました。日本には侵略の歴史を否定したり、日本軍が南京で犯した残虐行為を知らない人が沢山います。私が応募したのは、罪の無い犠牲者の霊を悼むだけでなく、より多くの人に南京大虐殺の歴史を理解していただくためです。」

今、ボランティア応募者は既に2万人を超え、働いた時間の累計は100万時間以上、紀念館では毎日120名以上の通訳が働いている。張建軍館長は「彼らは平和を愛する紫金草の園丁です。」と言った。

紫金草の種を撒く

2016年清明節(冬至から数えて105日目から3日間、新暦の44日~6日)の前日、紀念館は紫金草・祭憶と銘打って、埋葬地を訪ねて回る活動を行ない、400名以上のボランティアが広場に集まった。彼らは紫色の運動服を着て自転車や徒歩で出発し、中山埠頭、草靴峡、燕子磯などの遇難同胞紀念碑に紫金草の種を撒いた。

20161122日には南京国際安全区を訪れた。200名ほどの市民が集まり、紫金草バッジを付けて当時の国際安全区の境界線に沿って8㎞余りを歩いて、沿道の人々に紫金草の種とバッジを渡し、街の中心の花園に紫金草の種を撒いた。この活動はその後毎年定期的に行われ、葛道栄、井永華など9名の生き残りの人も参加した。

20181123日~25日には、日、中、韓の歴史認識と東アジアの平和シンポジウム実行委員会が連合して、17回歴史認識と東アジアの平和シンポジウムを日本の広島国際会議場で開いた。紀念館の凌蟻副館長が南京大虐殺の記憶を受け継ごうと題して講演を行い、紫金草の故事と紫金草行動について語り、紀念館を代表して各国の学者たちに紫金草の種を配った。

20192月、紀念館は微博を通じて次のように発信した。「あなた方が撒いた紫金草の種はうまく咲いていますか。清明節の前に写真を送って下さい・・」この数年、紀念館は紫金草の種まき運動を行っているが、「このメッセージを送った意図は、人々に自分が撒いた紫金草を思い出させ、より多くの人々の関心を集めるためだ。」と述べた。

紫金草平和紀念章の授与

紀念章は重大な出来事を記念するために用いるものである。館長は、紀念館は独自の平和紀念章を持っておいて、平和に貢献した人に送るべきだと考え、全国に向かって紫金草平和紀念章のデザインを募集し、南京芸術学院設計学院の教師呉印月の案が採用された。この若い教師はかつて国家告別式の鼎を設計したことがあった。直径3㎝ほどの紀念章は紫金草をモチーフとし、真ん中にの文字があって、国際的な友人の正義に対する勇敢な防衛と南京の難民の限りない人情を象徴しており、その周りには十個の三角形の星が放射状に散りばめられていて、正義の光が不滅であることを象徴している。四辺の花びらの間は外に向かって飛び立つ平和のハトである。紀念章をぶら下げる帯との結び目はオリーブの形をしている。材質は銀メッキで、130gの純銀と4gの黄金を使っており、証書と箱も手が込んだものになっている。20161212日、国家告別式の前日、紀念館は南京の鐘山ホテルの黄埔庁で紫金草平和紀念章の授賞式を行い、6名の国際的友人に章を贈った。黄埔庁は戦後に国民政府国防軍による戦犯の裁判が行なわれた場所で、日本軍の要人、南京大虐殺の元凶だった谷寿夫などがここで裁判を受けた。その場所で紫金草平和紀念章が授与されるというのはとても意義深い事である。

受賞したのは次の6名である。

当時国際安全区の主席を務め、ラーベの日記を書いたドイツ人のヨハン・ラーベ、

当時国際安全区を造り、幹事を務めたアメリカ人宣教師のジョージ・フィッチャー、

多くの中国人難民を治療し、東京裁判で証言したアメリカ人医師ロバート・ウィルソン、

難民の救助に当たった鼓楼病院のアメリカ人医師クリフォード・トリマー。

同じくリチャード・フリーマン・ブライディー、

報告書を書いた駐華ドイツ大使館南京署の政務秘書官のドイツ人ジョージ・ローソン。

ジョージ・フィッチャーの息子のロバート・フィッチャーが挨拶した。「私たちは事件の前にカリフォルニアに帰り、父だけが残っていましたが、父がこんな仕事をしていたとは知りませんでした。私たちは世界の平和に向けて進むべきです。」

2017814日、紀念館は2回目の授賞式を行い、今回はヨハン・マギーが受賞した。南京大虐殺当時牧師だったマギーは日本軍の虐殺の画像を隠れて撮影し、母国に持ち帰った。彼の死後、家族がそれを発見し、2002年にフィルムのコピーを紀念館に寄贈した。2015109日、南京大虐殺保存資料はユネスコの世界記憶遺産”に登録されたが、フィルムのコピーはその重要な一部分であった。ヨハン・マギーの孫でプロのカメラマンのクリス・マギーが遠路授賞式にやって来た。「私は祖父の仕事を誇りに思います。彼は正しい事をしたのです。私たちが歴史を銘記するのは、恨みを忘れないためではなく、歴史の悲劇を繰り返さないためです。私はもう一度南京の街を撮影して、新旧の南京の街の写真を並べて、平和を愛する気持ちを伝えたいのです。」

20171213日、南京大虐殺発生80周年に当たり、紀念館は第三回の紫金草平和紀念章授与式を行った。今回の受賞者はボーンハー・シンドベックとカール・キンダーである。ボーンハー・シンドベックはデンマークの出身、南京陥落の前に江南のセメント工場に来て、江南セメント工場難民キャンプを造り、2万人近くの南京人の命を救った。

カール・キンダーは1903年に中国の唐山で生まれたドイツ人で、ボーンハー・シンドベックと同じ江南のセメント工場で、一緒に難民を助けた。

カール・キンダーの姪が挨拶をして、叔父の仕事を讃え、自分も平和を目指すと述べた。

紫金草は小さくて美しい花に過ぎないが、歴史の記憶のシンボルとなり、ますます紀念館の宣伝デザインと活動に現れるようになった。専門家は「紫金草は紀念館のシンボルシリーズに組み込まれた。」と言った。

20161月から四葉の紫金草のマークは紀念館が扱うパソコンの資料や印刷物などあらゆる所でつかわれるようになり、館内のボランティアの服装も紫色になった。

201711月からは、紀念館が紫金草行動の中心になり、益々多くの放送媒体が紫金草を取り入れ、益々多くの活動が紫金草の名前をかぶせるようになった。紫色は南京大虐殺の記憶の一項目になった。張建軍館長が言った。

「紫金草マークをシンボルにするのは、紀念館を見学しに来た人により印象付けるためです。紀念館ではハンカチ、メモ帳、バッジ、ボールペンなどを紫金草の要素に取り入れました。その意図する所は、より多くの人に紫金草の故事を知ってもらい、紫金草を好きになってもらうことです。何故なら紫金草、二月蘭は平和の花だからです。」

南京大虐殺の宣伝を研究している学者の黄順銘、李紅濤が語った。「南京放送局が年に一回、国家告別式の前日に行う紫金草行動と違って、紀念館はインターネット以外の場所でも紫金草マークを習慣化し、制度化しようとしている。紫金草のマークと紀念館の花園、紫金花の少女の像は互いにマッチしていて、南京大虐殺の痛みを語り文化を記念する最新の要素、乃至は南京大虐殺の新しいシンボルマークになっている。」

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