六、紫金花の少女

 2007年の春、大門高子と山口裕はまた南京にやって来た。今回の目的は南京大虐殺紀念館と南京理工大学で歌を歌うだけでなくもう一つの目的があった。それは紀念館に小さな紫金草の花園を造ることを紀念館側と相談することだった。ずっと前の1997年に山口裕は南京の関係方面にその意向を伝えていたが、その時の答えは「やがて紀念館を大きく建て替えるので、その時に一緒に考えることにしましょう。」ということだった。山口裕はマスコミのインタビューに答えて言った。「父がよく私に『お前たち、いつか南京に行け、紫金草の種を持って行って紫金山の麓に撒くのだ。日本で増やした紫金草を再び故郷の南京で咲かせるのだ。』と言っていました。また1992年に日本の二人の若いボランティアが『日本で撒くだけでは十分ではない、故郷の南京に帰してやるべきだ』と言い出しました。そこで私たちは私の故郷の石岡で紫金草を故郷に帰す運動を始めました。ある程度の広さの花園に紫金草を一杯に植え、その中に南京の人たちに懺悔する石碑を建てて再び戦争を起こすことなく、平和を保ち続けることを祈る気持ちを表したのです。1997年にこの望みを南京市人民対外友好協会に伝えました。私たちはより多くの人に、日本には日中戦争に思いを致し、日中の未来を考え、平和を願う人が沢山いることを知ってもらいたいのです。その後、新聞に記事を出し、この運動への寄付を募ると、あっという間に1000万円集まりました。驚くことに1万円を出した右翼の人もいました。」

2007年は南京大虐殺の70周年で、紀念館は拡大されることになり、紫金草の花園も計画に組み込まれ、328日に鍬入れ式が行われた。山口裕は、父の夢がかなって本当に嬉しいと喜んだ。朱成山館長も来年の春、紫色の花が咲くことを楽しみにしていると述べた。皆で紫金草物語のテーマ曲平和の花 紫金草を歌った。式の後、南京理工大学でメタセコイアの下に咲く二月蘭を味わった。そして上海でも華東師範大学で公演した。

200796日、紫金草合唱団一行12名が15kgの紫金草の種を持って南京を訪れ、次の日に種まき式に参列した。68年前に日本の軍医が日本に持ち帰った時、南京は戦の最中だったが、戻って来た今、南京は大きな町として発展し、平和を味わっている。南京は歴史を忘れることは出来ないが、それだけにより一層平和を愛する町なのだ。大門高子は日本で821日に発行された紫金草の切手を持って来ていた。

この年の1212日、紫金草合唱団一行150名は南京を訪れた。この時の目的は、12.13式典で紫金草物語を歌うことと、紫金草の花園の落成式に臨むことだった。9月に植えた種は既に芽を出していた。花園の中央の石碑には山口誠太郎の文字が刻まれ、下には中国語、日本語、英語でこの花園の由来が書かれていた。合唱団は紫金草物語のテーマ曲平和の花 紫金草を歌った。式の後、山口裕は父の山口誠太郎が遺言を書いた紙と、自分が書いた碑文の原稿と、821日に発行された郵便切手を紀念館に贈呈した。中国の新聞社はこの式の様子を内外に報道した。

2007年に紫金草合唱団は3回南京を訪れた。朱成山館長はある文章の中で「南京で生まれ育った南京人として二月蘭はありふれた花だったが、今は世界で一番美しい花だと感じるようになった。」と書いた

2008年、故郷に戻った紫金草が初めて花を開いた。前の年、東京―南京間の直行便が開通し、互いに3時間で行けるようになった。大門高子と山口裕がまた南京を訪れた時、山口裕は朱成山館長にもう一つの考えを表明した。「紫金草合唱団が日本国内を公演していた時に、ある人が私に『紫金草の花園紫金花の少女の像を造ってはどうか』と提案して来ました。私はいい考えだと思いました。父は当時紫金山の麓で小さな女の子に出会い、いつもそのことを私たちに話していましたが、その子は未来、新生、希望を代表するものでした。父は南京が戦争から回復して美しい町に蘇ることを望んでいたのです。」

朱成山館長はこれに賛同し、その後合唱団と紀念館が議論を重ねて紫金花の少女を制作する計画を進めた。そのデザインはむらさき花だいこんの絵本にある子供の像なども検討した結果、南京の有名な彫刻家呉湿林が創ったものに決めた。彼の創った女の子は幼い時に苦難を経験したが、落ち着いていて自信に溢れ、未来への希望に満ちている。とにかく可愛い女の子なのだ。

2009418日、大門高子と山口裕は20名の紫金草合唱団員を連れて南京に来て紫金花の少女の像の除幕式に臨んだ。像を見て大門高子は、この女の子は山口誠太郎が出会った子というより平和と未来と希望の化身だと納得し、日本から用意して来た千羽鶴を捧げた。合唱団は紫金草物語の中の雨の紫金山を歌った。山口裕は取材に来ていた多くの記者に「紫金草は深い意味を持っていて、その精神は得難いものです。日本人の中にある、歴史と真剣に向き合い共通認識を持って反省する心を凝縮しています。紀念館の中にあることで、ここを訪れるより多くの人たちに、歴史を忘れないようにと呼び掛けていると思います。」と語った。新聞の記事には像の由来と朱成山館長の「紫金花の少女は平和への想いと祈り、日中両国人民の共通の心の声を代表しています。」という言葉が載せられた。

合唱団はその後も紫金花の少女と深くつながり、南京へ来る度に必ず和平園に来て千羽鶴を捧げている。紫金草物語を取材する記者として私はずっと紫金花の少女に大きな関心を抱いている。後に小説紫金草を書くに当たっては、この紫金花の少女を大事な登場人物として扱い、数十年に渡って山口家と交流させて、日中両国間の紆余曲折の歴史を映し出した。像が落成した2009年、私は大門高子に言った「紫金花の少女は今年76歳くらいですが、もしかすると南京のどこかに住んでいるかも知れませんね。」

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