五、和平園の二月蘭

南京理工大学は南京東郊の紫金山の麓の孝陵衛にあり、国で最初の211重点大学985重点大学である。その前身は中国人民解放軍軍事工程学院で、新中国の軍事工業科学技術の最高学府だった。1953年に母校から分かれて以来、南京地区でも有名な理工科大学の一つである。北は紫金山、西は中山門に臨み、中山陵風景区と渾然一体となっていて、構内には樹木が生い茂り、緑に満ちている。

広い校庭の中央に大きな空き地があり、1970年代に数百本のメタセコイアが植えられ、それはすくすくと育って校庭を代表する景色になった。1990年代に校庭の園芸師が東郊の丘の上に咲いていた二月蘭を見て、その種を採集してメタセコイアの下に撒くと、次の年の春に新しい芽が出て、花が開き、紫色の絨毯のようになって、とても綺麗だった。それ以来、園芸師は毎年夏に種を採集し、秋にそれを撒いた。早春3月の未だ肌寒い頃、校庭のメタセコイアの木の下は紫色に彩られ、美しく心の落ち着く雰囲気を醸し出した。毎年春が来ると花が咲いた。その景色は大学の人だけでなく南京の人たちを楽しませ、市民たち皆が楽しむようになった。

大学の宣伝部で働いていた宮載春はこの景色が好きで、それを讃える文章を書いたりしたが、2002年のある春の日、南京で有名な新聞週末に載った紫金草:二月蘭63年の奇談という記事を目にした。そこには山口誠太郎が紫金草を日本に持ち帰って全国に撒いた故事が載っていた。彼は直ぐに自分が働いている校庭の二月蘭の事を思い出した。

「この花は綺麗なだけじゃない、こんな物語があったんだ。」

彼はブログに書いた。「この大学は昔、日本軍の兵営があった所だ。山口誠太郎は当時紫金山の麓に住んでいた。この物語はこの校庭で起こったことかも知れない。もしそうだとしたら、私たちは平和の文化”を建設する歴史的な伝達手段を探し当てたことになる。」構内には今でも日本式の建物が残っている。彼はこの大学と南京大虐殺は何やら関連があると思った。彼は直ぐに紫金草物語の歌詞と楽譜を手に入れたいと思った。それを手に入れて、中国語に翻訳して、学生に歌わせたいと考えたのだ。

歌詞は直ぐに見つかったが、楽譜はなかなか手に入らなかった。日本の友人羅健に頼むと、彼は大門高子と大西進を見つけてくれた。二人は彼らの望みを聞くと、喜んで無償で提供してくれて、中国語で歌うことも認めてくれた。日本から歌詞と譜面が届くと、彼は大喜びで早速、学生たちを組織して練習を始めた。2005年の春、紫金草合唱団が再び南京に公演に来た時、宮載春はホテルで大門高子に会った。彼が楽譜を贈ってくれたことに礼を述べると、大門高子もお礼を述べた。「私たちも嬉しいです。最初に南京を訪れた時は不安ばかりだったのに、今はこうして中国の学生さんたちが中国語で歌ってくれるんですから。私たちは来年の春南京に来た時は、団員皆でここの紫金草を見に来ます。」

次の日、大門高子は一人で南京理工大学の校庭を訪れ、南京市民が訪れて楽しんでいる光景に酔いしれた。そして思った。「紫金草の故郷には二月蘭がこんなに沢山咲いている。来年はきっと山口裕さんと紫金草合唱団の人たちを連れて来よう。」

2005126日、大門高子、藤後博巳、本並美徳一行3人は南京市の12.13活動を機に南京理工大学を訪れ、大学側と文化交流の計画を話し合った。一行はまず中国の学生たちが歌う紫金草物語を聞いて大いに誉め讃えた。そして5年間の文化交流を約束し、大学の花園を和平園と命名し、紫金草の種を交換しあった。南京理工大学は平和の声芸術団”を設立し、大門高子はその名誉団長に招聘され、毎年春に紫金草合唱団が校庭を訪れることになった。

2006328日の午後、紫金草合唱団170名が初めて南京理工大学の校庭を訪れた。メタセコイアの下に咲く紫金草を見た時、皆はその美しさに涙を流して喜んだ。午後1時半、山口裕と大学の責任者が高さ2mの和平園の石碑の除幕式を行った。紫金草合唱団が皆で紫金草物語を歌うと、南京理工大学の平和の声学生芸術団は中国語で歌った。言葉は違うが旋律は同じである。片や父母或いは祖父母のような年代の人たち、片や青春真っただ中の若者たちが、この時遠い昔からの友人のようになった。学生たちは更に茉莉花”等を歌った。最後の演目は学生の舞龍隊による龍騰華夏という踊りだった。日本の人たちはその10人程の人たちの踊りに酔いしれた。大門高子は「この人たちを日本に呼んで、日本人にもこの踊りを見せられないかしら。」と思った。取材していた私は思った。「ここは戦時中に大変な激戦の行われた所だ。それなのに今日、加害国の人たちが平和の歌を歌いに来て、被害国の人たちはそれを温かく歓迎している、紫金山の麓の優しい小さな花が両国の友情の橋渡しをしている。かつて旧日本軍の兵士が南京理工大学の宿舎を訪ねて来た時、門衛が入構を拒否したという。多分、その門衛は民族的感情で拒否したのだろうが、たとえその日本人が昔を懐かしむ気持ちだけだったとしても入れてやればよかったのに。彼は何か理由があったに違いない、南京の人に与えた傷を知らなかったはずはないのだ。」

21世紀に入って、南京理工大学は、二月蘭を紫金草と呼び、その花言葉を平和”とし、花は大学の代名詞になった。それ以降、毎年の春に紫金草合唱団は南京に来て、理工大学の校庭で紫金草物語”を歌うことになった。

合唱団が帰国して1か月後、大門高子は宮載春にお礼の電話をかけて、「114日に奈良で紫金草物語の公演があるので、舞龍隊にも出演して欲しい。」と述べた。それを聞いて、宮載春は喜んで礼を述べた。中国人にとって二月蘭は祈り、友愛、平和を表し、龍は健康と活力を表すものである。中国の龍が世界に騰んで行くことは嬉しい事だ。南京理工大学はそれを実現することが出来る。大学は直ぐに精力的に準備に取り掛かった。

20071123日南京理工大学舞龍隊の訪日代表団一行16人が奈良に来た。24日本のうたごえ祭典in奈良が開かれ、2万人収容の奈良県立体育館は満員になった。奈良紫金草合唱団約100名が紫金草物語を歌った後、南京理工大学舞龍隊が踊りを披露した。舞龍は形(姿勢)、技(配合)、法(方法)、情(神韻)の4代要素を重んじている。演技者は捻る、振る、避ける、仰ぎ見る、膝まづく、跳ぶ、揺れる等色々の姿勢で龍の姿勢を作り、それはまるで流れる水や雲の様に滑らかで、9分間の演技が終わると、満場の観衆は立ち上がって長い間拍手を送った。次の日、新聞赤旗は舞龍隊の演技について絶賛し、その後記者は大阪、東京の公演にも付いて行った。奈良青年会の申し出でにより、次の日の午後、20名の青年が舞龍隊と交流を行なった。宮載春は、この交流で両国の青年の間がとても近くなったと喜んだ。26日の午後、奈良紫金草合唱団が歓送会を行なった時、青年会の人たちも参加し、終わった後ホテルまで送って行った。

29日の午後、舞龍隊は富士見市民文化会館でようこそ南京公演に参加したが、奈良で一度見た人たちの数名はわざわざ新幹線に乗ってもう一度見に来ていた。30日の午後、舞龍隊は東京池袋のようこそ南京公演に参加した。東京大学の石山久男、加藤文也両教授が南京大虐殺の真相という講演を行ない、その後東京紫金草合唱団が紫金草物語を一部歌ってから、舞龍隊が公演を行なった。その後の交流会で大門高子が言った。「これは日本の紫金草合唱団が初めて日本で中国の人たちと一緒に行なった活動です。舞龍隊は本当に良かった、中国の若い人たちは素晴らしいです。今回の公演は紫金草合唱団を人々に広めただけでなく、青年の交流も深めることが出来て二重の喜びがありました。」団長の王宗平は舞龍隊の龍を紫金草合唱団に贈呈すると言った。次の日大門高子と数名の幹部は舞龍隊を飛行場まで見送りに行き「来年の春、南京で、和平園で会いましょう。」と言った。

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