紫金草とは 

  紫金草とは3月4月ごろ畑や土手で紫色の花をつけるナタネ科の菜の花で、日本では「ムラサキハナダイコン」、「諸喝采」など、中国では「アー・ユエ・ラン」などと呼ばれています。

 日中戦争小史 

 1931年(昭和6年)日本は中国の満州に侵略戦争を開始(満州事変)し、傀儡国家「満州国」を建国して支配しました。1937年(昭和12年)盧溝橋事件を皮切に北京・天津、上海へと軍隊をすすめ、中国への全面戦争を開始しました。その年に当時の首都「南京」を制圧し、本土は祝賀行事で湧いていましたが、その陰で南京は30万人(中国公式見解) の大虐殺が行われ、死と廃墟の街と化していました。中国では抗日民族統一戦線が結成され、持久消耗戦略で日本軍に対抗しました。日本では国家総動員体制が敷かれ、人権は抑圧され、思想言論弾圧が激しく行われました。中国侵略に行き詰った日本は戦争を世界に拡大していきましたが、1945年(昭和20年)敗戦までの15年間に、約2000万人のアジア人の命を奪いました。戦後その反省から国連憲章によって侵略戦争が禁止され、日本では皇国史観を排除した主権在民の、武装放棄を宣言した平和主義の新憲法が発布されました。

 紫金草に関する故事

  日本軍の衛生材料廠の廠長で薬学者であった山口誠太郎氏は日本へ帰る時、南京大虐殺の行われた紫金山の麓に見事に咲いていた「紫の菜の花」の種を取り、密かに日本に持ち帰えりました。戦争で命を奪われた人々への鎮魂と平和を願ってこの花を「紫金草」と名付け、茨城県の自宅の庭で種を増やし、家族や協力者とともに、この花を日本中に拡げて行きました。1985年の筑波科学万国博覧会では100万袋の紫金草の種が配布されました。今ではこの花は「むらさき花だいこん」などの名で呼ばれ、全国で見られるようになりました。

 紫金草の故事に関する創作・演奏 

 その後、この故事に基づいて絵本「紫花だいこん」が著かれ、それを基に合唱朗読構成「紫金草物語」が作詞作曲されました。この合唱曲は東京足立で1998年に初演され,今では専門に「紫金草物語」を歌う合唱団が全国に設立され、団員は全部で約400人、その他の団体の「紫金草物語」合唱の参加者を含めて計約1000人が、各地で演奏活動を展開しています。2001年には中国へ2回、南京と北京に、2011年には南京で7回目の訪中公演を行うなど、中国の人々と交流し、友好を図っています。また 絵本「むらさき花だいこん」を使う紙芝居や朗読の会なども設立されて多彩な活動が進められています。

 不忘歴史、面向未来(歴史を忘れず、未来に向かおう)

  いわれのない戦争で今も多数の命が奪われ、平和憲法を持つ日本がいつでも戦争を出来る日本に変質させられようとしている今日、私たちは2度と戦争をさせないために軍国主義日本の行った過去の過ちを忘れず、未来に向おうという意味の「不忘歴史、面向未来」の言葉を掲げて演奏活動を行なっています。この歌を大勢の中国人に聞いていただき真の日中友好に役立つこと、また大勢の日本の皆さんに聞いていただいて、平和の尊さを再度思い返していただけることを私たちは願っています。(全国紫金草ネットワーク)


1